私は子供の頃、学校で喋りたくても喋れなかった。
私の緘黙状態を見て、大人しく可愛く見せようとしてわざとやっていると考える大人もいたが、 標準的な感覚の人達は、 学校という場に対して不安があるのだろう、学校で関わる大人やクラスメイトに慣れず不安で心を開けないのだろう、恥ずかしがりなのだろう、と解釈していた。だが、そういうわけでもなかった。
よく知らない相手だから何を喋ればいいか分からない、怖い、という人見知り的不安ではなかった。慣れない場に予測がつかなくなり緊張するといった場見知り的不安でもなかった。社交パフォーマンス上の不安、すなわち、きちんと喋れるだろうかとか、面白いことが言えるだろうかといった不安からでもなかった。
学校で関わる人達については、新学年が開始からひと月もすれば気心は知れるもので、私としては慣れていた。学校という場も、喋れないので楽しくはなく苦痛であったものの、突拍子のない事件が起こるのではなどという場見知り的な不安を抱くことはなく、その意味において慣れてはいた。
では緘黙モードになるとき、不安がなかったのかと言えば、不安はあった。たくさんあった。どういう不安だったかを下に羅列する。
学校で昨日まで喋らなかったのに、今喋ったら、変に思われるだろうな。
学校で昨日まで喋らなかったのに、今喋ったら、これまで喋れたのに喋らなかったのがバレてしまう。
学校で昨日まで喋らなかったから、今喋ったら、注目されるだろうな。
学校で昨日まで喋らなかったから、今喋ったら、大騒ぎになるだろうな。
学校で昨日まで喋らなかったのに、今喋ったら、これまで喋らなかったのはなぜなのかと質問攻めにあうだろうな。
“私が場面緘黙だったとき生じていた不安” の続きを読む