「愛しているなら自閉症だなんて思わないでしょう」:発達障害や精神疾患に対する差別とHSP概念の関係①

前回の記事では、Highly Sensitive Person (HSP)と呼ばれるニューエイジ系アイデンティティ概念が世界的に広まった背景として、提唱した心理学者であるアーロン氏をはじめとする多くの専門家が大々的に一般に宣伝することでHSPブームを仕掛けた経緯があったと指摘した。

今回の記事では、アーロン氏の広めたHSP概念が発達障害や精神疾患を蔑む論調を繰り返すことで当事者や保護者を顧客化する戦略を見ていくために、主にアーロン認定セラピストになるための教科書内容について語るつもりだったのだが、書いていたら大変な量になってしまったので、記事をふたつに分けることにした。

今回はアーロン氏が自らのHSPサイトにおいてASDに対して差別的な発言を繰り返し、当事者からの批判が高まると「私はASDの専門ではなくASDのことはよく知らないんで」と開き直り、発達障害に無知であるにもかかわらずASDとHSPの別診断ができると主張していたという事実を自ら露呈してしまった事件について記述する。

アーロン氏のHSPサイトは発達障害当事者から様々な批判を浴びている。中でも最も批判されたのはFAQにある『繊細であるとは自閉症スペクトラム症とどう異なるのか?』の項目だろう。そのページは現在は既に再編されており、ASDの人々に対する偏見に満ちた文章は削除されている。削除されたページのアーカイブはこちらで確認できる:https://web.archive.org/web/20190112041206/https://hsperson.com/faq/hs-or-asd/

特に批判を受けたのは以下の部分だった。

刺激にとても敏感で興奮しやすい傾向というものは、紛らわしいです。私には自閉症スペクトラム障害(ASD)と診断された大甥がふたりいます。ひとりは私の姉妹の孫で、もうひとりは私の兄弟の孫です。私がふたりに初めて会ったのはふたりが幼児の頃でして、それは長期旅行の際でした。そのせいか、ふたりとも旅行で過度に刺激を受けていて、私はふたりのことをHighly Sensitive Child (HSC)(とても繊細な子ども)だと思い込みました。私自身は診断を専門的に行うエキスパートではないことは明らかですが、彼らの行動を観察してきた経験のある現在の私はもう少し上手に対処できるようになっているといいなと思います。でも、たった3種類の食べ物しか食べなかったり、自転車の車輪が回転しているのを20分間も楽しそうに見続けている子だからって、そのお子さんを愛している人やお子さんの両親を愛している人がその子に自閉症の可能性があるなんて考えるわけがないでしょう。

このFAQ記事の問題は「愛しているなら自閉症だなんて思わない」の部分だけではない。前時代的に病理化させたASD観やステレオタイプを掲げては、ASDとHSPを対比させてはHSPを称える。その繰り返しが2,756ワードという長文にわたり展開されているのだ。

「ASDの人が情報を整理できずに常に混乱しているか遮断してしまうかしかないのとは対照的に、HSPの人は情報をとても慎重に処理する」と述べたり、

They fail to sort it out, so it is all there, all the time, or totally shut out. In contrast, HSPs and HSCs process information very carefully.

「ASDとHSPが混同されることがあるのは、それはASDの子が感情を制御する能力が低かったりその能力が完全に欠けていて、また繊細な子どもたちも他の子どもたちより感情的であるためであるが、ASDの場合は過剰な刺激を受けたときだけではなく感覚刺激を常に誤って処理しているのだ」と述べたり、

Sometimes sensitivity and ASDs are confused because the child with an ASD may have little or no ability to regulate emotions, and sensitive children, too, are more emotional than other children. But with ASDs, these behaviors are due to incorrectly processing perceptual stimulation all the time, not just when overstimulated.

我々HSPの過剰刺激状態は一度に処理しなければならない情報が多すぎるときに生じるが、ASDの人は常に間違ったものを処理していて、自らを完全に外界から遮断しない限り常に混乱した状態にあると述べたり、

Our states of overstimulation arise from too much to process at once. Those with an ASD are always processing the wrong things and always experiencing chaos unless they are able to shut themselves off from the world entirely.

「ASDとHSPにおける敏感さをの違いはふたつある。ひとつは社会的知覚であり、HSPは社会参加していないときでさえも社会的場面を観察するスキルが一般的にASDよりも高い。もうひとつはHSPは狭い範囲の関心に固執せずに豊かな想像力と多様な興味を持つ」と述べたり、

In brief, you can best sort out sensitivity from ASDs by keeping in mind two differences. First, social perception—HSPs are generally more skilled at observing what’s going on in a social situation, even when they are not joining in. Second, HSPs have intense imaginations and varied interests rather than narrow preoccupations.

「旅行で知り合った男性がASDであり、その男性は共感力にも感謝にも欠け苛立っていて、彼の共感力欠如に妻が耐えられず離婚に終わったという情報から彼はHSPではありえない」と述べたり、

a week-long group backpacking trip with a man with Aspergers (he only told us about this at the end), ….

Dad showed no sympathy or even annoyance. ….

The father expressed no surprise or gratitude. ….

his marriage had ended because his wife could not stand his lack of emotional empathy. With that information, there was no way that he could be confused with an HSP, ….

「ASDの診断を受けてしまったら変容への希望が低減する」と述べたり、

Everyone may be relieved to find a biological explanation, an ASD, especially since it absolves the parents of any blame. Alas, such a diagnosis also reduces the hope of changing, of developing stronger social connections with practice.

しまいには、

「患者の実際の社会的な共感性をよく観察し、また患者が自分の対人関係をどのように説明するかを見ていけば、鑑別診断ができる」と述べる。

You can do the differential diagnosis by closely observing patients’ actual social empathy with the therapist (after a few sessions to become comfortable) and by how they describe their relationships with others.

これだけASDについて極めて否定的に歪められた内容のステレオタイプを繰り返されて、揺るがない保護者は少ないだろう。「我が子は共感できる。ASDよりもHSPの特徴にあてはまる。医師の診断はきっと誤診で実は我が子はHSCなのだ」とアーロンのHSP本を買いに走り、アーロン認定HSPセラピストに予約を入れたり。このようにして一般の人々に心理学者がASDへの偏見を植えつけていくことで人々は次々にHSC/HSPへと乗り換える。

さて、アーロン氏がHSCだと思っていた大甥が、後にASD診断を受けたというエピソードからも色々と察するところがあるが、

私は大甥を愛していたからこそ大甥が自閉症とは思わなかった。愛しているなら自閉症だなんて思わないのは当然でしょ。

と自分の大甥をHSPと誤診した挙句、自閉症を忌み嫌い蔑むのが当然とするかの態度は多くの当事者に問題視された。

“HSPの基盤についてのサイトを見たのだけど… 私がなぜHSP概念にこんなに違和感を感じるのか分かってきた。HSPがいかにASDと異なるかを説明するのにFAQのひとつのセクションを全て割いて説明していて”

“エレイン・アーロンが記事に書いた自閉症についての見方は時代遅れで役立たない。「子どもを愛する人も、その親も、自閉症について考えたくはないでしょう」だって? HSPは自閉症と比べて「より正常」で「より社交的」で「より受け入れられる」かのように描かれている”

“そして、私はこの記事で自閉症の特徴が極めて病的なものとしてまとめらているのはタチが悪くまた時代遅れだと感じた。DSMに基づく自閉症を欠損とする描写をリストアップし、それを「感受性」「慎重さ」などと対比させることで、自閉症から距離を置こうとしているとしか思えない”

批判が相次いだ結果、アーロン氏は2,756ワードにわたる差別的コンテンツを削除。そのQ&Aページはたった56ワードのアンサーに替えられた。

https://web.archive.org/web/20230329063837/https://hsperson.com/faq/hs-or-asd/

自閉症診断は複雑でダイナミックです。この領域はエイレンの専門ではなく、エイレンは最新の研究については把握していません。正確さと敬意を要するトピックですから、詳しい情報が欲しい人は自閉症の専門家にお尋ねください。ただ、高い感受性などの生来の気質についても理解している専門家であることを確かめてからお願いしてくださいね。

自閉症について詳しくないのに、自閉症とHSPがいかに異なるかを語ったということだ。

“アーロンは自閉症の最新研究を把握していない。それなのに、環境感受性がいかに自閉症とは異なるかを主張し自閉症に対するステレオタイプを繰り返す内容の論文 (Acevedo et al., 2018) を共著した。

HSPの学術領域は説明責任を果たしてくれないと。それは私以前に多くの人が言い続けたことであり、今後も多くの人が言い続けるだろう”

HSP研究の説明責任。その通りだ。HSP研究をやっている人達には、HSP研究による倫理に外れた行動とその及ぼした惨状を前に説明する責任がある。前回の記事で書いたように、複数の著名HSP研究者による無責任で自分の利益ばかりを追求した結果、世界中にHSP概念が流行し同時に発達障害・精神疾患に対する差別的な言説が広まりスティグマが深まったのだから。

世界中の当事者がHSP研究に対し透明性を求め、説明責任を果たすよう追及を続けるように、私も追及を続ける。

このように日本国外では、HSP概念にミスリードされたり診断の機会を逃したりスティグマを深めたりといった多岐にわたる被害の責任は学術の場にある「HSP研究」に向けられてきた。当然である。HSP研究側が主導したのだから。

ところが、日本国内ではHSP研究に説明責任を求める動きは少ない。それどころか、前回の記事に書いたように、HSP概念に対して批判的な声が高まると、心理学で研究されている科学的な概念が自称カウンセラーやHSP自認者に歪曲され独り歩きしているのだというHSP原理主義論がHSP研究側から流され、そのような見方は日本国内で広く受け入れられ、「HSP研究」のほうが被害者だと信じられるに至った。

日本において学術や研究者への信頼が過剰に高いのか、権威主義的なのか、倫理観が欠落しているのか、発達障害や精神疾患の人々の人権が認められていないのか、リテラシーが低いのか、言葉の壁のせいなのか、それらすべてなのか、分からない。しかし、HSP研究が倫理的かつ科学的であると誤解されている日本においていつまでもHSPブームが収まらないのは偶然ではないだろう。

次回の記事では、資格商法であるアーロン認定HSPセラピスト資格を取得するために購入しなければならないとされる教科書である『HSPのためのサイコセラピー』(アーロン著)において、ASDのみならず多数の発達障害・精神疾患をネガティブに語りスティグマを植えつけることでいかにまるっとHSPとして顧客化しているかについて詳しく述べる。

投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.