自己否定という言葉をブログで何度も使っていながら、しかもそれが私の不安の根源に関わっているにもかかわらず、一度もこの言葉が自分にとってどういう意味なのか定義したことがなかった。
自己否定。それは私にとって劣等感とは異なる。
劣等感は他の人々と同じ土俵に立ちつつ、自分が他の人達と比べて劣っているような気がするということ。
劣等感なら、克服するのは難しくはない。毎日少しずつ努力すれば、他の人達と同じくらいになり、さらに続ければ追い越せる。ところが自己否定はそんなに甘いものではない。
自己否定はそもそも同じ土俵に立っていない。そもそも 「他の人達と比べて」 という観点がない。他に分散されず、完全に自分に集中した感覚。 「自分が生きていること」 それ自体を否定する感覚。
この自己否定が根底を流れているから、不安が生じ、さらに自動思考を起こして、不安の渦に巻き込む。 「生きている資格などない」 という完全自己否定に向かって、ぐるぐると流していき、震えるほどにまで不安を高めてしまう。
治療を続けることで、震えるほど不安が高まることはなくなった。自己否定が不安を生じ始めても、途中で立ち止まり、その流れを変えることができるようになった。
だから、震えるまでいかないし、もう問題ないのかもしれない。対処できるようになったのだから、いいのかもしれない。
そう思う一方で、まだこの自己否定の流れ自体があるのが分かる。いつでも常に深いところで流れている。
それはちょっとした日常の場面に、ぱっと突然、違和感として現れる。
私は本当は生きていてはいけない存在なのに生きている、そんな違和感。
例えば、飛行機に乗るとき。
自分の席を探す。見つける。ある。自分の席がある。その瞬間に、違和感。なんであるの? みたいな。
予約してあるんだからあるに決まってるし、そんな一瞬の違和感はすぐに理性で消し去ることができる。慌てるわけでもない。震えるわけでもない。
でも、普通、そういう違和感は一瞬すら感じないんじゃないかとも思う。
友人の家庭にディナーに呼ばれたとき。
きちんとテーブルセッティングされたテーブルに自分の席がある。それが視界に入るときのあの一瞬の違和感。
たくさんのご馳走を勧められるとき、そんなものをいただく資格すらないのに、と一瞬のうちに湧き上がる違和感。
そんな違和感を理性で払拭させ、楽しく会話。みんな笑う。本当に楽しい人ですね、みたいに笑いながら私を見る。違う。と思う。騙してしまったような罪悪感。本当は楽しい人などではない。この場にいるということすら間違ってるのに。それをまた理性で払拭させて、楽しく続ける。その繰り返し。
敬意を向けられるとき。同様に罪悪感と違和感。生きているべきですらないのに、普通の人達からの敬意などを受ける資格などない。
恐ろしいニュースなどを聞くとき。
なぜ罪のない子供達がたくさん殺されてしまったのだろう。私はその時間何をしていただろう。馬鹿みたいに寝転がってお菓子を食べていた。なんてひどいんだろう。私がその場にいるべきだった。代わりに殺されるべきだった。
こういう場合の罪悪感は一瞬では払拭されない。恐ろしいニュースを聞くと、何日も起こったことについてものすごく戸惑う。
それでいて、そんなふうに戸惑うのは理不尽だと知っている。
罪のないたくさんの子供達が毎日飢えて死んでいる。それは事実だ。報道されないだけだ。毎日のことだから。そういう子供達のことはどうなんだ。毎日のことだからこそ、もっと真剣に考えるべき問題なのに。
報道されて、その事件の起こった時間が伝えられる。そのときに自分が何をしていたかと考えてしまう。それがいけないのだろう。
私はこの一連の違和感がものすごく理不尽であることが分かっている。矛盾している。
だって、私は他方、超長生きして、100歳過ぎても働きたい、とか思っている。本当に思っている。理性が思っている。すごい矛盾。
もっと良いワインを買ってこないと、良い仕事ができない、と旦那に文句を言ったりしている。本当に良いワインが飲みたいと思っている。これは理性かどうか知らない。けど、良いものを自分が飲んでもいいと確かに思っている。
分かっているのに、違和感は発生する。私の意思を介さずにただ発生する。
理性はある。
自己否定の流れもある。この自己否定の流れは理性の流れと逆流している。
限りなく理不尽なくせに、限りなく根強い。理性的に考えている最中も常に意識の根底を深く流れていて、私の理性を足元から奪い、流し去っていこうとする巨大な川のようなもの。
「それ」 が持つこの圧倒的な感じをどう表現したらいいのか、分からない。理性と対極のもの。
ただ、こういう逆流を持つ人はいないわけではないようだ。
だれかが突然、自殺したとかいうニュースで、その人の友人にインタビュー。
「いやあ、びっくりしててねえ、だって、あの人はいつも前向きだったし周囲を笑わせていたし、あの日だって、3年後の事業目標について楽しそうに喋っていて、それなのに」
あー、わかる、わかる。と思っているところで、
「全然、わからないっ!」
えっ、そうなのか。わからないのか。
たぶん、3年後の事業については本当に楽しみだったのだろう。自己否定の逆流があって、あるとき、なにかの拍子に浸水してしまって、その人の理性をすっかり流していってしまったのだと思う。
だから、自己否定の流れっていうのは、かなりマズイ。違和感が一瞬起こるってのは、マズイ。
自己否定が流れを変えようとしても、ほとんどの場合、理性で払拭して、社会的場面もこなせるようになった。
だからもういいような気もするのだけれど、もしかしたら、そこまで改善させたいと思うのは贅沢なのかもしれないけれど、なんとかしなきゃマズイと思う。
私はある朝突然正気を失いもう戻れないということがあるかもしれないと常に覚悟しているのだが、それも、この自己否定の流れがあるのを感じるからだ。
なくなれば、たぶん、そんな心配もなくなる。子供だっているんだから、そうコロッと発狂してはいられないのだ。
だから、なんとかしたい。
で、向き合ってみた。この4カ月くらいずっとこれと向き合ってみている。
ところがこれはかなり時間がかかりそうだ。
社会不安障害の身体症状は1カ月ほど不安と向き合うことでほぼ消すことができた。けれども、こちらは時間がかかる。
向き合う直前の自己否定の流れの強度を100とする。
向き合っていると、それが200くらいに達してしまったりする。流されてしまうのだ。
で、がんばって、理性的に考えるようにすると、減ってくる。
現在、85くらい。
年末あたりには50くらいに減るだろうか。
それでいて実は私は自己否定と理性を対峙させているのがいけないのではとも思っている。
どこか理性のほうが偉いかのように自己否定を扱うから自己否定感が暴れようとする。そんな気もする。
後からきた理性という奴に、根源的な感情を否定させるから。そんな気もする。
結局はよくわからない。ただ、理性は私が信じていたほど偉くない。そんな気がしてくるのだ。