認知の歪みを修正する。認知を再構成する。自分を変える。あるがままを受け入れる。
そうなんだけど、確かにそれが起これば社会不安障害の症状は消えていくのだろうけれど、ハードル高すぎるように思えてしまう。
よくなろうと頑張っているのに、うまくいかない。認知が歪んだままだ。変わることができない。そこで焦ってしまう。自分を責めてしまう。自分にはできないのかもしれない。本当にダメなのかもしれない。
そこに突き当たると、躓いてしまう。それでも平気。躓いても、躓いたことを許してしまえば、起き上がることができる。許せない限り、起き上がれない。
一年以上、社会不安障害と向き合ってきて、治療に使われるあれこれの表現を自分に投げかけながら試行錯誤を続けてきて、今ぴったりとくる言葉がある。日々不安を感じた時に必ず使う言葉がある。
それは 許す ということ。
うまくいかないこと。それをひっくるめて許す。歪んでいる自分を許す。なかなか変わらない自分を許す。
いいんだよ。それで。と自分に声をかけてやる。
過去の不安発作のこと。周りに迷惑をかけたこと。震えたこと。不安障害である今現在の自分のあり方。そのひとつひとつを許す。
未来にだって、もしかしたら不安障害であるためにうまくやれないことがあるかもしれない。その可能性について許す。未来の自分についても許す。
許すっていうのも、自分を許したことがない場合、難しいかもしれない。そんなときは、ただ、思考停止になってみればいい。うまくいかない。ダメだ。と思うのをやめてみる。
なかなか思考停止になれない。自動思考が流れていて、ダメだ、ダメだ、と自動再生されている。止め方がわからない。そんなときは、止めようとしなくていい。代わりに、「聞かないよ」と言ってみる。「ダメだって続けても、聞かないよ」
すると、自動再生する声から自分の意識が離れていく。これは自分とは別の声なのだと分かる。
そこまでくれば、少し落ち着いてくる。ちょっとした騒音があるけど、ゆっくりしよう。くつろごう。いいんだよ。それで。
ゆっくり休んで、心の片隅で騒音が鳴っていることにも、まあ、いいか、と思えるようになったら、心に何かをやりたいという気持ちが芽生えているかもしれない。
そんな気持ちが生じたら、それがどんなに小さくても生じたら、その気持ちが生じたこと自体が、自分が自分の力で奇跡的に成し遂げたことなのだと認識しよう。
その何かをやりたいっていう気持ちが、コーヒーでも飲もうかな、みたいなちょっとしたことでも、素晴らしく奇跡的なことなのだから。自分の心を自分の力で恐怖から導き出してやったというそのことが、何よりも自分は できる ことの顕れなのだから。能力と可能性に充ち溢れていることを余すことなく証明しているのだから。
騒音が心の片隅でカタカタ鳴ることを許して、自分を労わっての繰り返し。過去、現在、未来。すべてについての騒音を、ひとつずつ、ゆっくり許していく。
「聞かないよ」と言ってみたとき、そのとき自分のあり方は変わっている。変わったという印象は得られないけど、変わっている。こうして、音もなく、色もなく、地味に認知は再構成されていく。だから、心配いらない。コーヒーでも飲もうかな、と思うたびに、症状は軽減していくのだから。