カンガルー恐怖症と闘うか逃げるか警報

休暇というのは、苦手だ。不安の入り込む隙間が生じるように思う。

忙しくてもひとつのことに気持ちを集中させているときのほうが調子が良い。

それでも休暇中は家族と楽しく過ごすのだという決意がある。そこで、微かな不安にさわさわと心の隙間を憑かれつつ小旅行に行ってきた。

真冬のオーストラリアで海ってのも寒そうなので今回は内陸へと向かってみる。タムワースなんていう奥地に面白いものなんてないように思いながらも、山越え谷越え荒地を越えていく。

 

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車を走らせていると、荒野をカンガルーの群れがぴょんぴょん跳ねていきます。私はカンガルーが苦手です。休暇以上に苦手です。

なぜ?

昔は私だってカンガルーってかわいいと思っていた。しかし、ゴールドコーストの動物園に行った時のことである。事件が起こったのは。

鹿せんべいもどきのカンガルービスケットというものがあり、カンガルーの餌付けができるようになっている。

大きなオスのカンガルーにビスケットをあげていた。そのカンガルー、なにやら常軌を逸した食欲ぶりで、すごい勢いで私の持っていたビスケットを食べつくしてしまった。

カンガルーは私の手が空っぽになっているのを見て、次に私の顔を見た。ぎくっとする。見ないで~

次の瞬間、この大きなカンガルーはぴょんっと跳ねたと思うやいなや、私にカンガルーキックを見舞わせたのだ。

カンガルーの脚力って、こんなに強いのか。

車に跳ねられたかのごとく衝撃を感じ、負傷。痛い。すごく痛かった。

まだ傷が残っている。

もちろん、心にもトラウマを残した。ちょっとしたことでもすぐにトラウマ化してしまうのはいけない。分かっているけど、怖い。怖いものは怖い。

「パパ、あれは野生のカンガルー?!」と車の窓にびったりと顔をつけて叫ぶ子。

「そうだよ」

「見て、パパ、あれは野生のカンガルー?!」ともう一度。

「...そうだよ」

「パパ、パパ、あのカンガルーは野生なの?!」

「三回目だよ。あのカンガルーは野生だよ」

「知ってたよ。そんなこと」と涼しい顔の子。

「じゃあ、なぜ三回も聞くんだ」

「カンガルー見て、うれしかったんだよね」とフォローしてみる私だが、同時に、カンガルーが集団で跳ねていく姿はなんと恐ろしいのだろうと思う。

カンガルーにかなうわけがない。私が毎日運動したところで、かなわない。カンガルーたちは毎日スクワット状態で移動していくのだ。すごい脚力なのだ。怖い。怖い。

これは恐怖症か。それとも正当な危機管理意識の範疇にあるのか。

そうだ。少し前に首都キャンベラでこんな事件があった。

 

CNNより抜粋:

ジョギング中の首都特別地域政府の閣僚が野生のカンガルーと「衝突」、後ろ足で蹴(け)られるなどし、左足のふくらはぎやももの裏側に深い裂傷を負う災難があった。

被害を受けたのは環境保護などを重視する「緑の党」所属のシェーン・ラッテンベリー氏で、カンガルーは飛び跳ねながら逃げる際、少しパニック状態にあったと推測。

(中略)

キャンベラの行政当局は環境上の理由などから毎年、生息数を管理するための駆除を実施している。緑の党もこの措置には反対していない。ラッテンベリー氏は、駆除の是非は論議を呼んでいるが過剰生息を示す科学的データに基づいて行われていると主張した。

同氏の交流サイト「フェイスブック」のページには「カンガルーは駆除の施策について何か訴えようとしたのではないか」と書き込んだ人物もいた。

豪州連邦政府によると、全国に生息するカンガルーは推定で約5000万頭。

 

閣僚と衝突してしまったカンガルーは、fight-or-flight response(闘うか逃げるか)反応を起こしパニック状態だったようだ。そして fight (闘う)を選んだ。

コワー。

あっ、でも、私もそうだ。SADなので闘うか逃げるか反応を起こしてパニック状態になったことが何度もある。それでも、周りの人を蹴り飛ばすなんてしなかったヨ。

やはりカンガルーは凶暴だ。しかもこのカンガルーにはテロ疑惑も浮上しているではないか。ポリティカルな訴えのためには人に危害を及ぼすことを厭わない動物なのか。

今日も5000万頭が大陸をぴょんぴょん跳ねまわってる。

危険すぎる。

カンガルーは怖い。そう認識するのは正当な危機管理である。

 

そんなふうに不安を募らせているうちに目的地に到着。

 

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写真はカントリーミュージック博物館。

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それがね、オーストラリア国内のとある情報を集めていたときに海外生活ブログという遠縁ジャンルに思いがけず遭遇。

なんか、イイ。平和でイイ。憧れちゃう。

私にも平和で普通っぽい記事が書けるのではないか。どうだろうか。そうだ。やってみたいと思う気持ちが大切なのだ。そこで、旅行のことを書いてみようと思った。

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どんなに普通にしようと努めても普通にはならないという経験則があるので、心配はいりません。ほら、すでに不安色がそこかしこに充満しているではないですか。

客観的観察などはそもそも不可能であり、SADである以上SAD的観点から語ることしかできない。従って、不安漂う独特な旅行記に仕上がること間違いない。独自のジャンルを開拓しているということにしよう。

 

次は植物園へ。

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上の写真は Bird of paradise (楽園の鳥、極楽鳥花)。

素敵な名前の花だな、などと眺めていると子供達の声。「ママ、ママ、ジャパニーズガーデンだってよ!」

 

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南半球の僻地にある日本庭園。それが日本庭園と呼ぶことが妥当である庭園に仕上がっている可能性はあるのだろうか。

子供たちが走っていくのを追って歩いていく。

 

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さて。

複数の岩。その周囲に松の木の赤ちゃんのような低木。小石も散らばっている。

それ以上に何と言ったらよいだろうか。これらは大変ユニークであるため妥当な表現が思いつかない、と表現しておくのが妥当かもしれない。

おや、奥に鳥居のようなものが見えますね。近くへ行ってみましょう。

 

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いや、これは門でしょうか。

荒野に建つ寂しげな様子が郷愁を誘います。

 

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次に行ったのは有袋類パーク。

有袋類。ちょっと緊張してきました。

カンガルーがいるかもしれない。

 

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早速こんな注意書き:

カンガルーはパーク内を自由に歩きまわっています。

カンガルーは挑発されたり、9月から3月までの繁殖期にあるときは、攻撃的になる可能性があります。

もし、攻撃の可能性が認められた場合、決して近寄らず、市議会に報告してください。

 

怖い。

 

攻撃の可能性がある危険な動物だと分かっていてパーク内に放し飼いにしてしまうなんて、無責任ではないかい。

などと思いながら、おそるおそる歩いていたが、カンガルーなんて一頭もいない。それどころか、有袋類なんていないじゃないか。

鳥類ばかりだ。有袋類がいないのに有袋類パークと名付ける妥当性は如何に。

 

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原色の鳥を眺めているうちに不安は薄らぎ、意識がワープしていく。

気がつくと、家族の姿が見えない。はぐれてしまった。また、迷子になってしまった。

こういうことがよくある。子供は迷子にならない。母である私は迷子になる。

心細くなり、泣きたい気持ちを抑えながら、慌てて家族を探す。そうしたら、今回はすぐに見つかり、ほっとする。

「一緒にいなきゃダメだよ」と子に言われる。

は~い。

 

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ワラビー橋?

ワラビーなら怖くない。小柄だからカワイイ。

みんなでワラビー橋に向かって歩いていく。

ところが。

 

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歩けど歩けどユーカリ林が続きワラビーの姿など一頭もない。

子供はもう歩きたくないというので引き返す。ワラビー橋の妥当性は如何に。

そのときであった。

カンガルーに遭遇したのである。

 

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大きなオスのカンガルー。最も危険なタイプです。

しかも何でしょう。目が座っています。昼間から酔っぱらい横になるオヤジの姿を彷彿とさせている。

俺様の有袋類パークだ。文句あるか? みたいな妙な自信に充ち溢れています。

怖い。

不安が沸き起こり始めたら、肩の力を抜き、いつものように三秒かけて息を吐く。

さらに自らに向かって余裕を装うために写真を撮ってみる。そうです。そのとき撮ったのが上の写真です。震えずに撮れました。ねっ、ぶれてないでしょ。

これは私が最近発明(?)して何度かやってみて効果を実感している不安払拭術でもあります。不安場面の写真を撮り、できればSNSなどに投稿します。実況中継を始めるのです。これについては今回は割愛し、いつか記事に書いてみます。いつ書けるかは分かりません。

近くにはメスのカンガルーもいました。

 

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メスは小柄でカワイイ。近寄って写真を撮る。

すると背後でガサガサっと不安げな音。

見ると先ほどの大型オスカンガルーが起き上がり、私を睨んでいる。

俺の女に近寄るな。そんな目だ。

それだけではない。明らかに戦闘体勢を取っている。

Fight or flight (闘うか逃げるか)

このオスカンガルーは選択肢を失い既に闘う気しかない。どうしよう。

写真? だって、今にもカンガルーが蹴りを浴びせようとしてるんだよ? 余裕を装う余裕すらない。カンガルーはさらに私を睨む。

哺乳類のオマエが有袋類パークを自由に歩きまわっている妥当性は如何に?!

きゃあっ ごめんなさい。どうしよう。

Fight or flight

もちろん逃げる。

 

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さて、無事に逃げて、ランチタイム。チャイニーズレストラン。

中に入ると、突然聞こえてきた f-word。女性従業員が大声で友達と喋っているのだった。ちなみにオージー中年女性。

怖い。

そんな小さな不安に見舞われたとき、いつもやるように平静を装い、案内された奥のテーブルへ。

注文を取りにやってきた例の従業員。すごく大きな声だ。

音量に圧されつつ、なんとか注文する。

なんか、今日は大変良くできた。カンガルーにも対処して、お料理の注文もして、がんばった。そんな気がする。こんなときはすかさずご褒美しなければ、SADが悪化してしまう。そうだ、ビールを注文しよう。

 

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誤解する人はいないとは思いますが、SADを理由にビール三昧を正当化しちゃおうというのではありません。この場面においてはビールが治療のためにどうしても必要なのです。

 

達成感を味わおうとしているまさにそのとき、旦那がひと言。「日本人観光客みたいに、なんでもかんでも写真を撮る」

ちょっと、ちょっと、何ですか、それ。

私は日の丸パスポートを保持する正真正銘の日本人ですよ。しかも観光中。私は今まさに日本人観光客であり、それ以外の何者でもない。

もう、イヤダ。前回の記事で言ったじゃないか。常に自分以外の何者かになることが求められてきた。SADになった責任など微塵も負うものか。そう宣誓したばかりだったのに。

もしかしたら、羨ましいのかもしれない。そうだ。どうがんばっても旦那は憧れの日本人にはなれないのだ。かわいそうだ。こんなとき妻である私は寛容になり、聞こえなかったことにしてやろう。

 

食事も中盤にさしかかり、子が言う。「私、ホームシックみたい」

ホームシックだって?

なんでそんな言葉知ってるんだろ。学校で聞いたのかな。ホームシックったって、まだ旅行は始まったばかりなのに。

「もう家に帰りたいの?」と旦那。

「帰りたくない」

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「ママもホームシック?」と聞いてくる。

「ママはホームシックにはならないんだ。ずっと、sick of home (故郷にうんざり)だったからネ」とげらげら笑う怪しい母(私)。

それにしても、会話の流れにどこか噛み合わないものがある。「ホームシックになったって言ってるけど、どんな感じがするの?」と聞いてみる。すると、

「お腹が痛いような感じで、ちょっと気持ちが悪い」

それは?

乗り物酔いだ。

「ホームシックって、どういう意味?」旦那が聞く。

「おうちから離れているときに、気分が悪くなること」

旦那が説明する。「それはホームシックではないよ。ホームシックってのは、おうちが恋しくなって、帰りたくなってつらい気分になることだよ」

すると怪訝な顔をして、「そんなのは sick (病気)ではない」と主張する。

 

心の痛みは病気ではない。心の痛みを病気とするのは妥当ではない。そう言われてしまったのだ。

キビシイ。

ママ、やられた。ぐさりときて、ちょっと考えてみる。

SADはSocial Anxiety Disorder の頭文字。「障害」と訳されている ‘Disorder’ は ‘order’(秩序・調子・整頓された様)が接頭辞 ‘dis‐’ で否定されて秩序が乱れた様子(不全)を表している。

もちろんSADは mental illness (精神疾患)のひとつとされているが、病気と呼ぶには語弊があるかもしれない。障害と呼ぶにも少々の語弊が伴う。社会的場面に際すると、諸事情により少々乱れた形で脳の回路が刺激され、fight-or-flight response(闘うか逃げるか反応)を誤作動してしまう状態といったところだろう。

過呼吸になったり震えたりといった、闘うか逃げるか反応を起こすこと自体は病気でも障害でもない。それどころか、脳の最も基本的な機能である。危険からすぐさま逃げるための反射を起こすという生き伸びていくために必要な機能だ。

だから、もし闘うか逃げるか反応が全く起こらなくなってしまったら、危険に際して警報が鳴らなくなってしまったら、極めて深刻である。

他方、闘うか逃げるか反応が生じる範囲が広がってしまっているのは、まあ、それだけのことで、本来深刻なことではない。

また、大変残念なことではあるが、実際のところ、社会には裏切る人もたくさんいるし、過度に競争を強いられるし、そんなことばかりなので、人間性が傷つけられる。人間にとって人間性が傷つけられるのは大変深刻なことだ。人間の心を持っている者にとっては存在の根本を揺るがされるほど大変深刻なことだ。だから、裏切りの生じやすい社会的場面において極度の不安を覚え警報が鳴ってしまうのは、むしろ人間として妥当なのかもしれない。

緊張を伴う社会的場面からすばやく逃げまくるのは、現代社会に限って言えば確かに誉められたものではない。当人だって、高度に社会化・組織化された社会で生きているとの自覚があるから、誉められたものではない、義務を果たしていないと思い、自分を責めるようになる。そして心に傷を負うようになる。

逆に言えば、自分を責めなければ心に傷を負わない。SADも悪化しない。だから、時に闘うか逃げるか反応が誤って発動されることがあったとしても、そんなちょっとした誤作動を許してあげることができれば、心の病気にも障害にも疾患にもならないのだ。

すると、どうだろう。

ここまで考えて思った。

先ほど、私は危険動物カンガルーを前にして、余裕を装い写真など撮ってしまった。本来であれば、即座に闘うか逃げるか反応が発動されて、過呼吸となり全速力で逃げるべきだったのだ。

いけない。闘うか逃げるか反応をコントロールする術を身につけてしまったがために、脳の最も基本的な機能を抑えるような真似をしてしまった。カンガルーに命を奪われるところだった。

これこそ病気だ。

では、ここでビールをご褒美にというのは妥当ではなかったのか。

どうしよう。もう飲んじゃったよ。脳の基本的な機能である警報が鳴らないような認知の強化が成されてしまう。病気になってしまう。

そうだ。ビールはご褒美ではなかったことにしよう。ビールは飲みたいから飲んだの。そうだ。そう考えてみると、元々そうだったじゃないかという気すらしてくる。

これからは、余裕を装うのは、人との社会的場面に限定しよう。カンガルーやワニに対峙したらすぐ逃げよう。そうしよう。

 

子供には心の痛みも深刻となることや病気となり得ることなどは言わなかった。

どうやら心の痛みなどは経験したこともない様子であることに安堵した。

そんな痛みのことなど知らなくていい。ずっと知らなくていい。

 

最後に奇妙なミリタリーミュージアムに遭遇した。

 

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フリーウェイに突然現れたチープな装いの看板。見てみよう。

廃館となっているようで、誰もいない。窓から中を覗くと全て埃まみれで荒れている。

おや? あれは何だ。私の脳裏の奥深くにあるものと呼応する何かがある。

 

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中央区新川一丁目2

 

男子トイレの横。ごみ箱の上方に、貼ってある。

なぜ?

たぶん、この建物を所有する誰かが、日本へ行った。その際に住所標識を見つけ、そのエキゾチックに並ぶ漢字と数字に心を奪われた。かどうかは知らないけど、盗もうと決め、無理やり剥がして、オーストラリアに持ち帰ってしまった。ぼこぼこになった標識から、このオージー盗人の意地のようなものすら感じ取ることができる。

オージーほんと何でも盗んじゃうんだよね。盗めるものは必ず盗まねばっていう文化なのです。ごく普通のオージーのお友達の家を訪問しても、「これ盗んだのー」と嬉々としてあれこれ戦利品を見せてくれたりする。そんな信じられない場面を私は幾度か経験している。

このようなことが繰り返されぬよう、街で不審な行動をとるオージーなどを見かけましたら、すぐに通報しましょう。

それにしても、オーストラリアの僻地でボロボロにされてトイレの横に飾られている日本の住所標識の姿になにやら我が身を重ね合わせてしまう。これがホームシックなのかな。新川を思い、心が微かに痛む。

投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.