私が場面緘黙だったとき生じていた不安

私は子供の頃、学校で喋りたくても喋れなかった。

私の緘黙状態を見て、大人しく可愛く見せようとしてわざとやっていると考える大人もいたが、 標準的な感覚の人達は、 学校という場に対して不安があるのだろう、学校で関わる大人やクラスメイトに慣れず不安で心を開けないのだろう、恥ずかしがりなのだろう、と解釈していた。だが、そういうわけでもなかった。

よく知らない相手だから何を喋ればいいか分からない、怖い、という人見知り的不安ではなかった。慣れない場に予測がつかなくなり緊張するといった場見知り的不安でもなかった。社交パフォーマンス上の不安、すなわち、きちんと喋れるだろうかとか、面白いことが言えるだろうかといった不安からでもなかった。

学校で関わる人達については、新学年が開始からひと月もすれば気心は知れるもので、私としては慣れていた。学校という場も、喋れないので楽しくはなく苦痛であったものの、突拍子のない事件が起こるのではなどという場見知り的な不安を抱くことはなく、その意味において慣れてはいた。

では緘黙モードになるとき、不安がなかったのかと言えば、不安はあった。たくさんあった。どういう不安だったかを下に羅列する。

学校で昨日まで喋らなかったのに、今喋ったら、変に思われるだろうな。

学校で昨日まで喋らなかったのに、今喋ったら、これまで喋れたのに喋らなかったのがバレてしまう。

学校で昨日まで喋らなかったから、今喋ったら、注目されるだろうな。

学校で昨日まで喋らなかったから、今喋ったら、大騒ぎになるだろうな。

学校で昨日まで喋らなかったのに、今喋ったら、これまで喋らなかったのはなぜなのかと質問攻めにあうだろうな。

上記の不安から、今私が喋ったら、「それは天地がひっくり返るようなことであり、ものすごく変な子だと思われてしまう。普通の子ではなく化け物のような奴だということがついにバレて、私は永久に罪人の烙印を押されてしまう」という、さらなる大きな不安へと繋がった。またその過大化した不安は「私が喋るところを 決してクラスメイトに見られてはならない」という決意の強化へと繋がっていた。

喋らなければ、今日も明日も沈黙を守り通すことができれば、喋れるのに何年も喋らないである日突然喋りだして変な子だと思われることも、注目を浴びる危険性もなく、私は一定の安全を確保できる。

「一定の」とつけたのは、それは長期的に見れば決して安全ではないことを私は子供ながらに知っていたからだ。緘黙が続けば、悪意をもって緘黙の子を利用しようとする人にも遭遇する。それに緘黙している故に変な子だと断定されるわけだから、黙っていれば変な子だと思われないというのも違う。緘黙が長引けば長引くほど、変な子だと思われてしまうことも私は知っていた。

ただ、その時限り、その場限りにおいては、緘黙状態であることは私に安全をもたらすのだった。

上に羅列した私の不安は、 緘黙モードに切り替わる直前の一瞬だけ高まった。 学校で誰かに話しかけられる。その瞬間、不安になる。その不安は、頷くなど発話を伴わない対応をして事なきを得る頃には薄まっている。黙っている状態のときは、かなり安心していた。 なにしろ、喋らないので(社交しないので)社交パフォーマンス不安も生じなかった。パフォーマンスの欠如したところにパフォーマンス不安は生じないのだ。 これらの不安がないということは、緘黙状態のとき苦痛を感じていないということとイコールではない。緘黙状態に陥り、自分の周りを高い壁が取り囲んでいくあの感覚。孤立感と苦痛。不安がないことと苦痛がないことは異なる。

とはいえ、場面緘黙初期はそうではなかった。幼稚園という新たな社会的場面に身を置いたことで、体が固まり、喋れなかった。恐怖が強く、そのせいで声を出すこともできなかった。不安で体が固まり喋れなかったのだ。時が経つにつれて、集団生活の場に慣れていき、初期に抱いていた種の不安はなくなった。その代わり、喋りだしたら変に思われるのではという不安が生じた。その不安が現実化しないように、緘黙を貫き続けた。では、初期以降の私の緘黙は回避行動であったということか。

場面緘黙状態を不安が高まったために声が出せなくなっている状態と考えるのではなく、回避メカニズムの枠組みで捉える説がある。その説に生理学的なエビデンスを示した研究 (Young, Bunnell, & Beidel, 2012) がある。

Young et al. (2012) は緘黙状態にある場面緘黙症の子供たち (n=10)、社交恐怖の子供たち (n=11)、いずれの診断もない子供たち (n=14) に社交タスクをやらせ、そのタスク中の子供たちの心拍数、収縮期血圧、皮膚電気活動を測定した。驚くことに、それら生理学的反応から示される不安レベルが最も低かったのは場面緘黙の子供たちだった。

もちろん、その実験 (社交タスク) 中、場面緘黙の子供たちは喋らなかった。つまり、社交タスクの最中、場面緘黙の子供たちは沈黙を維持し、 傍から見ると社交タスクの実行が困難となるほど極度の不安にあるかのようだが、緘黙している子供たちの生理学的反応が示すところによると、さほど不安な状態ではないようだった。

不安障害の人は不安を感じる行動を実行しようとするとき、大きな不安を感じる。他方、不安を感じる行動を回避するとき、安堵に包まれる。不安と回避のサイクルを踏むほど、不安障害は根を張りそのサイクルから出られなくなる。場面緘黙の子供たちが社交タスク中緘黙状態を貫き、不安を示す生理学的反応に乏しいという結果は、緘黙状態が回避行動として機能しているという説のひとつの裏付けとなるとYoung et al. (2012) は論じている。

これは、場面緘黙の子供達が緘黙状態にあるとき、社交不安が高まっているとする見方 (Black & Uhde, 1995; Dummit et al., 1997; Sharp et al., 2007; Vecchio & Kearney, 2005) を覆す結果であり、面白い。緘黙状態=不安状態とする知見が親や当事者からのセルフレポートから得られ、対して緘黙状態=回避行動とする知見は生理学的反応から得られているのも面白い。もちろん、後者の知見も小規模研究一件に基づいている点で限界はあるが、他の不安障害の不安サイクルに関する知見と重なる点で説得力があり、その意味でも面白い。

場面緘黙の不安は、高所恐怖症の人が吊り橋を渡ることやバンジージャンプを飛ぶのに喩えられることが多い。

高所恐怖症の人が吊り橋を渡ろうとしたが、吊り橋を目の前にして予期不安を感じ、無理だと感じやむなくその場に腰を下ろし、皆が吊り橋を渡るのを眺めていることにした。その間、高所恐怖症の人は既に回避したため不安を感じていない。他方、高所恐怖症でない人達は「こわい!」と言いつつ吊り橋を渡っていく。結構なレベルの不安を感じながら。私の緘黙状態は「座っている」状態に相当する。この高所恐怖症の人が吊り橋を渡ったり、バンジージャンプを飛ぶことは、私にとって学校で皆に見られている場で喋ることに相当する。

ただ、回避行動と専門用語を使うと一般に誤解されるかもしれない。一般的には、回避というのは「ルートの選択肢が複数あった。そこで、混むルートを回避した」のように、本人に選択を下せる自由があり意識的に回避の選択が可能である文脈で用いられる。私の記憶の限りでは、緘黙状態に陥るときは、ほぼ自動的に緘黙モードに切り替わった。喋るのを見られたくないという不安があって切り替わるものの、喋る喋らないを選択する自由は私自身にはなかった。そこには選択肢がなく、不安→緘黙→不安→緘黙…と続くサイクルの力に吸い込まれるという、たったひとつの道しかなかった。だから、不安がもたらす不可避的緘黙状態を「不安が高まり喋れない」と表現するのも、その意味において的確であろう。また、仮に私が緘黙初期に経験していたような緘動状態が継続していたなら、その緘黙状態は不安の高まりから喋れないと表現してよいのだろう。

回避とか逃げるとかいう言葉を使って緘黙の子に説明するのは、色々な意味で不適切であろう。ただ、どうして私だけが学校で喋れないのか自分でも分からず、緘黙から抜け出すことができなかった子供時代のあの頃、不安と緘黙のサイクルと緘黙を深く根付かせていくメカニズムについて、適切な言葉で説明してくれる大人がいたらよかったのにと思う。そうすれば喋るのを見られる不安から緘黙状態に切り替わるあの自動的で強固なサイクルが一瞬が緩み、そこに緘黙状態に陥る以外の選択肢が生じると同時に私が自ら小さな声を発する隙間も生じたのではないだろうか。大人になった今、そんなことを思う。

References

Black, B., & Uhde, T. W. (1994). Treatment of elective mutism with fluoxetine: A double-blind, placebo-controlled study. Journal of the American Academy of Child and Adolescent Psychiatry, 33, 1000-1006.  https://doi.org/10.1097/00004583-199409000-00010

Dummit, E. S., Klein, R. G., Tancer, N. K., Asche, B., Martin, J., & Fairbanks, J. A. (1997). Systematic assessment of 50 children with selective mutism. Journal of the American Academy of Child and Adolescent Psychiatry, 36, 653-660. https://doi.org/10.1097/00004583-199705000-00016

Sharp, W. G., Sherman, C., & Gross, A. M. (2007). Selective mutism and anxiety: A review of the current conceptualization of the disorder. Journal of Anxiety Disorders, 21, 568-579. https://doi.org/10.1016/j.janxdis.2006.07.002

Vecchio, J. L., & Kearney, C. A. (2005). Selective mutism in children: Comparison to youths with and without anxiety disorders. Journal of Psychopathology and Behavioral Assessment, 27, 31-37. https://doi.org/10.1007/s10862-005-3263-1

Young, B. J., Bunnell, B. E., & Beidel, D. C. (2012). Evaluation of Children With Selective Mutism and Social Phobia: A Comparison of Psychological and Psychophysiological Arousal. Behavior Modification, 36(4), 525–544. https://doi.org/10.1177/0145445512443980

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Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.