出来事と感情を区別するのは、認知行動療法でやるコラム法・認知再構成法でも基本のひとつと理解している。それでいて、何年やってもこれが難しい。
何が難しいかって、出来事の記述が難しい。自動的に湧き上がる感情は遭遇した出来事と割れ目なくくっついている。割れ目のないところに適当に見当をつけて、割れ目を作り、引き剥がしてみるのだ。きれいすっきりとは引き離せない。難しい。
たとえば、私は「大人しいね」と言われるのが嫌いである。
大人しいと言われた途端、すごい速さで自動的に不快感が生じ不安と混じり合い、慌てる。言葉はおろか、形も、輪郭もない、心身を高速で巡っていった不快な何かを言語化してみる。
「まともに喋れないのがバレた。変な奴だと思われているに違いない」
「大人しいね、だって? なんて、野暮なことを言うんだろう」
「もうダメだ。普通の人ではないのがバレたのだから、今後この人とはまともな関係は築けないだろう」
「これ以上の醜態を晒す余裕は私にはない。二度とこの人と会わないようにしよう」
不安、怒り、絶望、回避思考… 次々に出てくる。
さて、この感情が生じた出来事は何か。頭にぱっと浮かぶのは次のような描写だ。
「また大人しいねと言われてしまった」
これは一見、出来事の記述のようでありながら、純粋に出来事を描写していない。感情と価値判断にまみれている。
文の最後の「しまった」というところに感情が込められている。これを消す。
「また大人しいと言われた」
まだ感情が混ざっている。「言われた」という受動態に、自分が被害を被ったという意識が込められている。
ところで、日本語で表現するとき、気をつけていないと、受動態が多く紛れ込んでくる。
「私は雨に降られた」
といった日本語独特の表現を使うとき、雨が突然降ってきたことで私が悲惨な目に遭っている感じが自分の中で膨らんでいく不幸感を存分に味わえる。
「降る」は自動詞なのに。動作主もないのに何者かが悪意をもち不幸を投げつけたかのような受動態表現。
受動態抜きで思考していくほうが被害者意識から解放されて楽だ。
「また大人しいと言われた」を能動態に変える。
「またAさんが私に大人しいと言った」
ここで気づく。Aさんが私に大人しいと言ったのは初めてのことだ。「Aさんが私に大人しいと言った。以前に別の人に同じことを言われたことがある。何度もそういうことがあった」というのが正確な記述だ。今回の出来事を記述するのだから、過去の情報やら記憶やらは不要だ。
「Aさんが私に大人しいと言った」
まだ何かが籠っているような気がする。でも、これ以上は、感情的なもの、価値判断にかかわる要素は、抜けきれないと思う。
「仕事が遅いと怒られた」
この出来事記述中の「怒られた」という受動態には、自分が被害を被ったという感情が込められているが、「怒る」という動詞のチョイスにも出来事に対する価値判断が込められている。怒鳴り散らしていたのなら、怒っていたのであろうが、そうでなければ相手が怒りを感じていたのかどうかは判断しかねる。ここも
「Aさんが私に仕事が遅いと言った」
発話行為を示すだけのニュートラルな動詞(「言う」)と交換し、さらに受動態を能動態化することで、出来事から感情的表現を排除していく。それでも、まだ何かすっきりしない。「仕事が遅い」というのも価値判断である。しかしそれはAさんの価値判断であり、Aさんの言葉である。私の価値判断ではないから、ここは手をつけられない。そのままにしておくしかない。
君がなにか外的な理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス
価値判断表現リストみたいなものがあれば、出来事と感情を分けるとき便利なのに思う。
~しまった【文末表現】
つらい、悲しい、ひどい【形容詞】
~された【態】【主語・動作主の欠如】
全然、いちども、また、決して、一生【一般化する副詞】
怒る、無視する、蔑む、侮辱する、失敗する、バカにする【動詞のチョイス】
リストがあれば、自分が何気なく価値判断を下したときに気づきやすい。次第に、自分がどのような場面において、どういう傾向の価値判断をするのかが見えてくる。
私は「~しまった」という表現を多用しがちだ。
「不安場面で震えてしまった」
私は「震えた」のであって震えて「しまった」は余計である。「私は震えた」それだけでいい。
「プレゼンで失敗してしまった」
これは「プレゼンをした」でいい。回避せずにやったのだから失敗と感情的にラベリングする必要はないし、それをさらに「しまった」で締めることで自らへの悪評価を確かなものにするなど、何ら合理性もない。
「回避してしまった」は「回避した」でいい。回避しないに越したことはないが、回避したならそのことで罪悪感に浸り延々と脳内反省会をやっても、SADの改善には繋がらないだろう。次回は回避しなくて済むよう工夫するために気持ちを切り替えればいい。
☆
混ぜ合わさっていた出来事と感情を分けてみると、気分に変化が訪れる。それまで私の心身をどんよりと掴みどころなく覆いつくし支配していた感情が、根っこを失ったように支配力を失い、楽になる。もちろん、自動的に生じる感情が現実と合っている可能性はある。それでも出来事から感情が切り離されることで、自動的に生じる思考内容はあくまでもひとつの可能性であり、仮説に過ぎないということが実感できる。
それでいて、やはり出来事の記述は難しい。事実と意見を区別するのは社会生活の様々な場において必要とされているにもかかわらず、それは容易にできることではない。というか、言語化という操作には不可避的に対象への価値判断が伴うように思う。なぜなら、「Aさんが私に大人しいと言った」という出来事の記述には、Aさんのその発言を切り取り、言語化した時点ですでに、Aさんの発言を取り巻く諸々の言語化されなかった現象にはない特殊な意味を獲得している。想像してみよう。舞台上に複数の俳優が立っている。照明が消され、ひとりの俳優にスポットライトが当たる。スポットライトを浴びた俳優は暗闇で見えなくなっている俳優にはない意味を獲得している。「Aさんが私に大人しいと言った」ことは、それが私にとって特定の価値判断を伴うからこそ、ハイライトされたのだ。「Aさんが私に大人しいと言った」ことに不快感が伴わないなら、Aさんの発言前後の会話や、Aさんが発言しているときの表情や、その他諸々の言語化されずに過ぎ去った事柄と同様に流れ去ったはずだ。出来事の記述から抜き取れる感情をすべて抜き取り、尚且つ何かが籠っているような気がしたのは、たぶん、そういうことなのだろう。出来事の記述は難しい。
そんなとりとめのないことを思うとき、私が執着する傾向のある出来事から離れてみることも大切なのだろうという認識に至る。強い感情の生じた出来事に注目して、沸き起こる感情に対して反証を試みたり代替思考を考えたりと捏ね回してみるだけではなく、見えていなかった部分に光を当てていく。「大人しいね」というセリフに私が執着している間、多くがその場を流れていく。前後で交わされていた会話の内容、風の匂い、相手の表情の微細な動き、私の意識が普段キャッチしない諸々の事象に目を向けてみることも、きっと同じくらい、もしかしたらそれ以上に大切なことなのだろう。