社会不安障害の人の回避をサポートするのは支援ではない

私の旦那は私と外食に出かけると妙な癖を発揮する。

「注文するものは決まった?」

と訊くので答える。そして、注文を取りに来たスタッフにまとめて伝えてしまうのだ。私は一切喋らなくて済む。

おいおい、私は子供ではない。それに、私が喋る機会をなくすと困るではないか。

確かにレストランで注文するというのは私の苦手な場面である。しかし、自分でやらなければ、さらに喋れなくなってしまう。困る。非常に困る。

そもそも、なぜこの人は私の代わりに喋るようになってしまったのか。私はいまだかつて一度も「私の代わりに注文してほしい」などと頼んだことはない。それなのに、この人は私に代わって喋るようになってしまった。なぜだ!

そこでこれまでの人生を思い返してみる。私が頼んでもいないのに、私の代わりに喋るようになってしまった人々の面々が次々と浮かぶ。私の周囲にいる人々は、なぜか私の代わりに喋るようになってしまう。

たぶん。

たぶんである。私が、オーラを放っているのである。

喋るのは苦手だな、私の代わりにこの人が喋ってくれたら助かるな。そうしたら、この人のこと大好きになるな。

そんなオーラを私は無意識のうちに周囲に放ち、それを感知した周囲の人々はつい私の代わりに喋ってあげたくなってしまう。

これってすごいことではないか。私の不安感が知らずのうちに周囲の者に伝染し、人々は私の不安に従って行動するようになる。私の不安を中心として動く小さな世界が生まれるのだ。

 

不安障害と家族の巻き込み

不安障害者が家族を巻き込んでしまう「巻き込み」 “family accommodation” と呼ばれる現象は、強迫性障害において多数報告・研究されている。

強迫性障害を患っている人が不安で何かを綺麗にしていたり確認しているとする。そんな強迫行為を目にした家族が楽にしてあげようと確認等の強迫性障害の儀式を手伝う。すると一時的に本人の不安は収まる。しかし、家族が強迫行為に巻き込まれることで、さらに強迫行為のルールは強化され維持される (Calvocoressi et al., 1999; Shafran, Ralph, & Tallis, 1995)。家族は自分たちの手助けが本人の症状に悪影響を及ぼすとは、家族を交えた治療において指導されるまで気づかない。

Parents are typically unaware of this and will continue to accommodate their child until they are educated about the negative consequences of doing so.

(Merlo et al., p. 5)

あまり知られていないことだが、社会不安障害(SAD)を患っている人も家族を巻き込む。

私自身の記憶を振り返ってみても、ああ、あのときも、またあのときも、巻き込んでしまったな…と多くの実例が浮かぶ。認知行動療法を受けて不安の維持されるメカニズムについて学んでからは、それまで気づかずに巻き込んでしまった自らの事例がこのように次々と頭に浮かぶ。

ああ、いけなかった。けど、知らなかったのだから、しょーがないよね?

社会不安障害を患う家族を支えるために、他の家族メンバーが、不安場面を回避できるように手助けする “avoidance support”。次第に、不安回避ルールに家族が従うようになる。それが習慣化すると、本人も家族も、疑問すら感じなくなる。本人は、家族による回避サポートがなくしては、生きるのに必要なちょっとした行動もできなくなっていく。

こわい。病的な不安は個人を超えて、家族・友人を巻き込み、皆を不安障害を維持する手足へと変えていくのだ。不安障害の強大なる不安フォースは個人を超えて機能する。

 

社会不安障害の巻き込み

ここで重要なのは、巻き込みというものはSADを患う本人が知っていれば多くは防げるものということ。

知らないと、やらせてしまう。やってと頼まなくても不安オーラの無敵フォースを発揮して、無言のうちに周囲の人々に自分の苦手なことをやらせてしまう。

さらに私は苦手なことを誰かにやってもらえた後で、代わりに言ってもらえて楽だったな、ふふっ、嬉しいな…と、微笑んだりしていたかもしれない。無意識に。

それで、いいことしたなっ♪という印象を受けた家族はさらに深く巻き込まれ、知らずのうちに私の回避行動を強化していく。

でも、本人が巻き込みや安全保障行動が不安を維持させることを知っていれば、そういうふうにはなりづらい。

私の場合は、認知行動療法を受けて、SADを維持させるのは回避と不安強化の悪循環であると学び、安全保障行動が回復を妨害すると学ぶと、家族が普段の生活において自分の代わりに不安対象の行動をやってしまいそうになるとき、気づくようになっていった。

先日読んだSADの巻き込みに関する希少な論文にこんなことが書いてあった。

SADの人の巻き込み対象者はパートナー(配偶者・恋人)が最も多かった。そして、患者本人が認知行動療法を受け安全保障行動を放棄していく指導を受ける過程において、パートナーへの巻き込みが減少する傾向が認められた。パートナーは治療に参加しておらず行動の指導も受けていない。本人への治療の結果、パートナーへの巻き込みも減少した。

… the focus on eliminating safety behaviours in treatment may have encouraged participants to reject avoidance support from their partners.

(Rapee et al, 2015, p. 45)

これが小児~青年期の社交不安であれば、小児の強迫性障害治療に家族への指導を加えると効率的に治療できるように (Storch, Larson, et al., 2010; Storch, Björgvinsson, et al., 2010)、家族も認知行動療法に参加し指導を受け子供が回復しやすい環境を整えていくほうがいいのだろう。

私が現時点(2016年12月)において文献調査した限りにおいては、成人のSAD治療で家族が巻き込みについて指導を受けた場合の例は見つからなかったのだが、やれるならきっとそれも治療にとってプラスとなるのだろう。

ただ成人のSADにおいては、本人が認知行動療法を受け、心理教育・エクスポージャーを経ると、家族に自分が不安を感じる行為をやってもらうことは安全保障行動に他ならないと知る (Rapee et al, 2015) ので、家族に巻き込みについての指導を受けてもらわなくても、セラピストが家族を指導しなくても、本人が家族に伝え、自分が回復しやすい環境へと整えていけるのだろう。

安全保障行動をやることで不安場面において生じる不安を回避しようとすれば不安が生じる悪循環を強化し症状の維持に繋がるのと同様、巻き込みが起こると不安が生じる悪循環を強化し症状の維持に繋がると知る。

そこに至ると巻き込みが起こりそうになったとき、「私に代わって言わないで・やらないで」と家族に伝え、巻き込みを防ぎ、できる限り自ら行動できるようになる。

さらに、無意識に放っていたであろう、やってもらえたら助かるなオーラとか、やってくれてうれしいなスマイルも減少していくと思われる。だって、代わりにやってもらえちゃったら、自分の不安障害が悪化していくんだよ? それ知ってたら笑えんわ。

そういうふうに本人が巻き込みが起こっているのを意識できるようになれば、家族の <ついやってあげたくなっちゃう衝動> も連動して減少するわけだ。なるほど。

確かに私も治療を受け始める以前は、巻き込みを認識できなかったし、私の代わりに言うのをやめてもらおうなどとは考えなかった。やってもらえてラッキーくらいにしか思っていなかった。そういうふうだったので、治療を受けるまで、不安を維持する環境を破るなんて思いつきもしなかった。

不安のメカニズムについて知る。自分の病について知る。そのことは回復へと向かう大きな力となる。不安の悪循環にピリオドを打つ一歩を踏める。

 

何でも「甘え」で解釈する風潮に対して

そんな巻き込みについて語っているとありがちな反応は、

「やっぱり社会不安障害なんてのは甘えだな」とジャッジする精神疾患への理解が乏しい人や、

「それって、甘やかすからいけないってことか」と自責する家族とか、

「私が甘えてるっていうの?」といった当事者の困惑。

既存の日本でよく言われる甘えと似ている気がするからといって、その枠組みに早計に当て嵌めてしまうのなら、症状として不安が維持されるメカニズムが見えてこない。ジャッジしても、自責しても、困惑しても、不安回避ルールに向き合わないことには不安は断たれない。

 

「これが苦手なのでやってほしい」は当事者にとっては第二選択肢だったりする

社交不安系の障害に悩む人々は「自分を他者が助けるにはどうすればいいか」への様々な思いの形がある。

「視線を浴びると怖いので自分の姿を決して見ないでほしい」

「褒められると恐怖を感じるので褒めないでほしい」

「自分のことを言及されると頭の中が真っ白になるので、私の前で私のことを語らないでほしい」

「人前で食事はできないので、部屋に運んでほしい」

「会話は苦手だが人は大好きなので、私の目を見ずに、私の返答を期待せずに、ひたすら私に話しかけ続けてほしい」

「飲み会に誘われて行くと言っても直前に不安になりドタキャンする私であるが、誘われるのは嬉しいので誘い続けてほしい」

これらおそらく健常者から見ると非現実的な注文の裏にはふたつの要点が隠れている:

  1. 本人が巻き込みのメカニズムについて知らない
  2. 本人はできることなら自分でやりたいと思っている

本人が不安障害の巻き込みについて知らない。その状態は厄介だ。

「私は、~が苦手なのです。~が不安なのです。ですから、~を私の代わりにやってください(言ってください)。~を私がやらないで済むように。それが私に合った支援です」

と訴える不安障害の当事者がいれば、聴く人は、なるほど、非現実的にも思えるが、ぜひやってあげよう、と思うだろう。無理をしてでもやってあげたいと思う。それは大切な人を前に生じる真っ当な感情だ。

それなのに、本人の言う通りにやってしまうと巻き込みが起こり不安障害を悪化させる一因となるという罠。本人の言う「私に必要な支援法」と実際に本人が回復していくのに必要な助けが異なる場合がある。不安障害では特に。そういう病なのだ。

その場合、本人が適切な治療を開始し巻き込みを含む安全保障行動について学ぶことで解消されてくるだろう。

ふたつ目。実は本人はできることなら自分でやりたいと思っている。でもできないから、これまで何度もトライしてきて、それでもできないから、やってくれと言っている。つまり、誰かに代わりにやってもらうのは、本人にとって「第二選択肢」なのだ。自分でやるのが「第一選択肢」なのだ。

私自身、「~が不安。~が苦手」と思うとき、それは私のすごくやりたいことだったりする。

やれることなら、やりたい。でもやれない。これまでずっとできなかった。

やれないから、誰かに代わりにやってもらう。

さて、残された選択肢はこれひとつだろうか。

こんな選択肢もある。

やれないけど、やりたいから、少しずつやれるようになるために、誰かに途中まで支えていてもらい、小さなことを自分でやってみる。例えば、自分で料理を注文できないなら、同席の家族が注文時に「あなたはハンバーグだっけ?」と会話を自分に振ってくれるようにすれば、「そうです」とか言える。小さな一言が言える。それは何も言えないより遥かにいい。小さくて、それでいて、大きな一歩である。

次回はもう少し多くを自分で言えるようになるかもしれない。そういうふうに本人と家族が協力して、不安維持のメカニズムを打ち破り、回復に向かっていく。

ただ、本人が嫌だ、やりたくないと言う場合は無理強いはできない。無理やりやらせようとするのは人権無視である。無理にやらせてみたところで、家族関係が壊れ、別の意味で悪化していくだろう。

不安障害への適切な治療を受けていくうちに、自らやってみたいという気持ちに変容していくものだ。やはり適切な治療を受けることから始まる。

最近思う。人が人を助けたいと思う気持ちはたぶん人類共通であり、故に巻き込みは不可避的に生じる。

「レストランで食事してると、スタッフがテーブルに来て “How is everything?” とか聞く瞬間、SAD的にびくっとする」

などと私が言えば、聞く人は

「そうですか、それでは次回あなたとレストランで食事の際には、料理が美味しいかどうかなんて聞きに来ないようスタッフに言っておきますね」

とか

「おおっ、私はレストランで働いていますが、そういうお客様もいるとは知りませんでした。気をつけねばなりませんね」

などと言われて、私のほうが、

へっ? なんだよそれ、気にせず放っておいてくれよ、そんなことされちゃSAD的に困るんだ

と思う。けどそれは巻き込みについて知っているから思うのであって、周囲の人々は私がSAD的ネタを披露して遊んでいるなどとは思わない。配慮をお願いしたくて言っていると思う。当然だ。

だから私が気をつけねばならない。SADネタの際は常に巻き込みについても言及し皆で不安のメカニズムについて語らう。これは実は不安障害に限った話題ではなく、何気に誰でも思い当たる節のある人類共通の話題であったりする。誰でも苦手な何かを身近な誰かに無意識に依存してしまうことがある。そんな一般的な家族間依存過程とも重なるわけだから。

 

References


Calvocoressi, L., Mazure, C. M., Kasl, S. V., Skolnick, J., Fisk, D., Vegso, S. J., et al. (1999). Family accommodation of obsessiveecompulsive symptoms: instrument development and assessment of family behaviour. Journal of Nervous and
Mental Disease, 187(10), 636–642.

Merlo, L. J., Lehmkuhl, H. D., Geffken, G. R., & Storch, E. A. (2009). Decreased Family Accommodation Associated with Improved Therapy Outcome in Pediatric Obsessive-Compulsive Disorder. Journal of Consulting and Clinical Psychology, 77(2), 355–360. https://doi.org/10.1037/a0012652

Rapee, R. M., Peters, L., Carpenter, L., & Gaston, J. E. (2015). The Yin and Yang of support from significant others: Influence of general social support and partner support of avoidance in the context of treatment for social anxiety disorder. Behaviour Research and Therapy, 69, 40–47. https://doi.org/10.1016/j.brat.2015.03.012

Salkovskis, P. M. (1991). The Importance of Behaviour in the Maintenance of Anxiety and Panic: A Cognitive Account. Behavioural Psychotherapy, 19(1), 6–19. https://doi.org/10.1017/S0141347300011472

Shafran, R., Ralph, J., & Tallis, F. (1995). Obsessive-compulsive symptoms and the family. Bulletin of the Menninger Clinic, 59, 472–479.

Storch, E. A., Björgvinsson, T., Riemann, B., Lewin, A. B., Morales, M. J., & Murphy, T. K. (2010). Factors associated with poor response in cognitive-behavioral therapy for pediatric obsessive-compulsive disorder. Bulletin of the Menninger Clinic, 74(2), 167–185.

Storch, E. A., Larson, M. J., Muroff, J., Caporino, N., Geller, D., Reid, J. M., … Murphy, T. K. (2010). Predictors of functional impairment in pediatric obsessive-compulsive disorder. Journal of Anxiety Disorders, 24(2), 275–283. https://doi.org/10.1016/j.janxdis.2009.12.004

 

P.S.

いつも書いていることだが、この記事はSAD的一般論に過ぎず、個別の治療についてはプロの治療者に診てもらってください。誰もが認知行動療法で回復するとは限らず、別の方法が適している場合もあるはずなので。

Rapee et al. (2015) の結論セクションには、SADの巻き込みは男女差があるかもしれないとしている。これは面白い。もしかしたら、SADに女性が多いひとつの因子として男性側がSAD女性に対して世話を焼いてしまいがちでSAD女性の症状を悪化させている可能性もあるではないか。SADもひとつにはジェンダーイシューであるのかもしれない。

投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.