治療を終えて10年が経った

2012年に社会不安障害の認知行動療法による治療を始めて、早くも10年経過した。

認知行動療法との出会いは、私の人生において衝撃だった。

絶対に治らないと思っていた社会不安障害が、比較的簡単に治っただけではない。認知行動療法は私の人生観を変えたと思う。思考の核となる部分を変えたと思う。

それは人格が変わったということではない。核の部分が、それまでどう努力したって変化する様子がなかったのに、柔軟性を帯びるようになった。行動も少し柔軟になった。それまで決してやらなかったことも、やってみたりする。うまくいかなくても、気に病まない。ひとつな小さな勇気と小さな行動が、予想を超えて、どこまでも切り拓いていくのを発見した。

認知行動療法を継続して実践していくうちに、人を取り巻くエレメントの機能が、関係性の変化により変容するのを知った。変わりえないと思われたことも、他のエレメントと私との関係性が変わることで変容するのを知った。

その関係性は強化されるのも知った。特定の場面の回避を続ければ続けるほど、私の恐怖と回避行動は強化されるのだった。それは、必ずしも病を悪化させる悲劇的なことではなく、うまく操作すれば逆に病を回復に向かわせるメカニズムだった。

10年という時が経ち、自分の中に不安思考や回避への衝動が生じていることにに気づくことは相変わらずある。気づくせいか、それでも社会不安障害が再発するようなこともなく、治療の効果は継続していると実感している。

感情を交えず出来事を描写することの難しさについて

出来事と感情を区別するのは、認知行動療法でやるコラム法・認知再構成法でも基本のひとつと理解している。それでいて、何年やってもこれが難しい。

何が難しいかって、出来事の記述が難しい。自動的に湧き上がる感情は遭遇した出来事と割れ目なくくっついている。割れ目のないところに適当に見当をつけて、割れ目を作り、引き剥がしてみるのだ。きれいすっきりとは引き離せない。難しい。

たとえば、私は「大人しいね」と言われるのが嫌いである。

大人しいと言われた途端、すごい速さで自動的に不快感が生じ不安と混じり合い、慌てる。言葉はおろか、形も、輪郭もない、心身を高速で巡っていった不快な何かを言語化してみる。

「まともに喋れないのがバレた。変な奴だと思われているに違いない」

「大人しいね、だって? なんて、野暮なことを言うんだろう」

「もうダメだ。普通の人ではないのがバレたのだから、今後この人とはまともな関係は築けないだろう」

「これ以上の醜態を晒す余裕は私にはない。二度とこの人と会わないようにしよう」

不安、怒り、絶望、回避思考… 次々に出てくる。 “感情を交えず出来事を描写することの難しさについて” の続きを読む

「自分を晒すのが怖い」:社会不安障害の中核と否定的自己イメージへのエクスポージャー

社会不安障害(SAD)の中核には他人に悪く評価されることへの多大なる恐怖があります。

というのがSADについて書かれた文章に頻繁に登場する説明だが、私はこの説明にどうも共感できない。

まず、私は他人が私を悪く評価していないという事実を知っていた。それにもかかわらず、人前で話し始めると不安に駆られ発作に至るのだった。

もうひとつ。私は良い評価を受ける場面をも恐れていた。褒められるのが怖い。誰かが私に羨望の目を向け褒め称える場面が怖い。

意味が分からないだろう。

もう少し詳しく私の恐怖を表現してみる。

私は周囲が優しく公平な人たちであり、また私に好意的であることを知っている。私が話しているときに不当な評価などしないのも知っている。私に良いことがあれば喜び、私がやった仕事に良い部分が少しでもあれば、そこを褒めてくれるのも知っている。私が恐れていたのは、実は私は皆さんの好意に値するような人間ではないことがバレることだった。人前に出て人々の視線を浴びたりしたら、自分の本質がバレてしまうような感覚に襲われ、怖い。褒められると、いつかは実は私は無能であることがバレてしまうのではという恐怖に襲われる。

社会不安障害の中核を他人に悪く評価されることではなく、自己イメージの問題とするモデル (Moscovitch, 2009) がある。自己イメージの問題。それは現実とは異なる否定的な自己イメージを抱えているために、自分の思う「ダメな自分」が他人にバレるのが怖い...それが社会不安障害の中核にあるとする。これは私の長年のSAD的恐怖にぴたりと重なる。

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