「自分を晒すのが怖い」:社会不安障害の中核と否定的自己イメージへのエクスポージャー

社会不安障害(SAD)の中核には他人に悪く評価されることへの多大なる恐怖があります。

というのがSADについて書かれた文章に頻繁に登場する説明だが、私はこの説明にどうも共感できない。

まず、私は他人が私を悪く評価していないという事実を知っていた。それにもかかわらず、人前で話し始めると不安に駆られ発作に至るのだった。

もうひとつ。私は良い評価を受ける場面をも恐れていた。褒められるのが怖い。誰かが私に羨望の目を向け褒め称える場面が怖い。

意味が分からないだろう。

もう少し詳しく私の恐怖を表現してみる。

私は周囲が優しく公平な人たちであり、また私に好意的であることを知っている。私が話しているときに不当な評価などしないのも知っている。私に良いことがあれば喜び、私がやった仕事に良い部分が少しでもあれば、そこを褒めてくれるのも知っている。私が恐れていたのは、実は私は皆さんの好意に値するような人間ではないことがバレることだった。人前に出て人々の視線を浴びたりしたら、自分の本質がバレてしまうような感覚に襲われ、怖い。褒められると、いつかは実は私は無能であることがバレてしまうのではという恐怖に襲われる。

社会不安障害の中核を他人に悪く評価されることではなく、自己イメージの問題とするモデル (Moscovitch, 2009) がある。自己イメージの問題。それは現実とは異なる否定的な自己イメージを抱えているために、自分の思う「ダメな自分」が他人にバレるのが怖い...それが社会不安障害の中核にあるとする。これは私の長年のSAD的恐怖にぴたりと重なる。

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選択肢を増やして悪循環から意識を逸らす

私の過去は社会不安障害(SAD)特有の様々な悪循環で満ちていた

と以前書いたが、社会不安障害の悪循環というやつは極めて強力である。

悪循環が生じたと気づく前に自動的に嵌っている。特定のトリガーに対する反応がひとつしかなくて、例えば「電話」に不安がある場合、

  • 電話が鳴る(トリガー)⇒ダメだ、喋れない、電話を取らず無視しようと思う(特定の反応)
  • 電話をかけねばならない状況(トリガー)⇒恐ろしいので先延ばし(特定の反応)
  • 人前で喋らねばならない状況(トリガー)⇒また不安発作が起きるに違いない(特定の反応)

というふうに、トリガーに対する決まった反応へと流れていく。別の反応へ向かわない。もちろん、現実における不安場面は毎回微妙に異なるためトリガーも微妙に異なる様相を呈する。が、多少トリガーが異なっても、反応は変わらない。

  • 震えて全然喋れなかった
  • 震えつつも意図は伝えられた

どちらでも、いつもの「大失敗だ!」という悲劇的ルートへ向かう。

毎回、まっすぐ、もれなく、悪循環ルートを行く。レールの上を自動走行する電車のように。

そこには選択肢がない。

そもそも私はそこに選択肢が生じ得るなど思ってもみなかった。

それでは悪循環から抜けられないのは当然だ。と今では思うけど、SADが最悪の状態の頃は、この鎖の連なりに選択肢やら別の反応やらが入り込む余地があるなんて考えたことすらなかった。

パニックを起こす状況に身を置くと、アレルギー発作のごとく必然的にパニックが引き起こされる

と思っていてそこに疑いすら抱かなかった。

だって、実際にそうだと思っていたから。これまでの経験からして、不安場面に身を置くと必ず不安発作が起こったと思っていたから。「思っていたから」とつけたのは、実は結構うまく話せたことは多々あったのだが、そういう経験は記憶から削除されて、私の意識の中ではなかったことにされていたので。悪循環は成功体験の強力な“delete”キーとしても機能するのだ。

トリガーが導く結果に選択肢があるかもとも、選択肢が生じる余地があるなどとも思わなかった。そこに複数の選択肢があって、それら選択肢の中から私が反応と行動を選び取れるなどと夢にも思わなかった。ひとつの悲劇的な結果が必ず導かれると信じて疑わなかった。そんなふうに、お馴染みの根付いた思考と行動パターンに陥っていた。

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「自分のために誰かに頼むのが嫌いだ!」の思考記録

私は人に頼むという行為が嫌いである。

具体的に言うと、自分の事情のために誰かに「これをやってください」と頼むのが嫌いだ。人に何かを言うのはOKである。たとえば、上の立場の人に生意気なことを言うのは平気だったりする。意見を申し上げて嫌われるのも平気だったりする。それなのに、自分の困りごとを他人に解決してもらうために話しかけ頼みごとをするのは嫌だ。

別件について頼む場合はOKである。自分のことでなければ。たとえば、「あの、すみません、ある方が今困っておりまして、あなたがあることをやってくだされば、その方は助かるのですが、お願いできませんか」と頼むのは難なくできる。躊躇すらしない。

が、困っている人が自分となると私の頭の中で事態は完全に別の方向を辿る。自分が困難を打破するために、誰かに事情を話して私を助けてくださいとお願いする。それは嫌だ。絶対に嫌だ。

そういうふうなので、一度困ってしまうと出口がない。考え込み、躊躇し、先延ばしにする。その間、なんとかして自分ひとりで解決できないものかとあれこれとひとり調査を重ねる。延々と誰かに頼まなくても済む方法が見つかるのを願いつつ、ひとり沈黙のまま、こそこそと作業を進める。それで解決する場合もある。なにしろ、そんな状態になった私はとにかくしつこいのだ。けれども、解決しない場合もある。

今回の状況は、頼まねば解決しない状況だった。認めねばならなかった。しかも、期日が迫っていた。さらに悪いことには、私が今誰かに頼まなければ、ある件である人が私のために着々と準備を進めてきた努力が無駄になるという状況だ。頼まねばならない。ああ、嫌だ。だがやらねばならない。

この件は、私が個人的によく知らない教授に頼まねばならないだろう、というところまで私の嫌がる思考は辿り着いた。

私がおかしいのだとは気づいていた。ここにこそ私の根強い信念がある。先送りにして、自分を袋小路に追い詰めてしまう、思考の悪循環がある。そんな匂いがした。そこで、思考記録表7コラムの形式に従い、今回の私の様子を綴ってみようと思った。 “「自分のために誰かに頼むのが嫌いだ!」の思考記録” の続きを読む

行動実験:ボロを纏い準備もせずに学会発表に挑む

準備をすると不安になる。

これは一種の予期不安だろう。何かへ向けての準備を始めると同時に不安も生じ始める。

不安場面であるほど、場面をこなすためにしっかり準備をしようとする。 “行動実験:ボロを纏い準備もせずに学会発表に挑む” の続きを読む

行動療法って体育会系だ

今年半ばに鬱になった事件を契機に受け始めた認知行動療法(CBT)のフォローアップは、二年前に社会不安障害治療のときにお世話になったジャネットさんが引っ越してしまった関係で、別のセラピスト、アマンダさんが担当してくれている。

同じCBTと言ってもジャネットさんとアマンダさんのセラピーセッションはかなり感じが異なる。 “行動療法って体育会系だ” の続きを読む

「普通」を捨て「あり得ない」を目指す:曝露療法

社会不安障害 (SAD) から一定の回復を得た後も、新たなる社会的場面に挑み続けることは、再発を防ぐためだけでなく、新たに再構成された認知を強固なものとし、日常において自分の生活範囲を拡大していくために大切なことだ。

私は現在、様々な場面に以前と異なるスタンスで挑戦することを心がけている。プレゼン等の業務上必要な場面は既にクリアしたので、日常生活に曝露療法を拡大させている。曝露療法 (exposure: エクスポージャー) とは行動療法のひとつであり、SAD治療を車の運転免許取得に喩えると、認知療法は学科、曝露療法は技能。免許を取っても、運転しなければペーパードライバーになってしまう。SAD治療も曝露を続けなければ、社会的ペーパー人間となってしまう。 “「普通」を捨て「あり得ない」を目指す:曝露療法” の続きを読む

行動療法の効果

私のケースでは行動療法が最大の回復への鍵を担ったと思っている。もちろん、行動と認知を分けるのではなく、行動と認知が相互に作用しあい、新たな認知を根付かせていった。そういうふうにして回復できたと私は思っている。 “行動療法の効果” の続きを読む