社会不安障害から回復するということ

先日、2012年7月14日に自分が書いた記事を読んで、えっ?と思った。

プレゼン当日の朝のことを書いた記事だ。不安は全くないが、やはり頓服薬を飲んでおくことに決めた、と書いている。

pharm

「今回失敗したら、壊滅的ダメージ」だって?

「二重三重のセイフティネット」?

えっ?と思ったのはこれらの表現だ。

現在、プレゼンする時、そういうことは思わない。

現在、薬は使っていない。使うべきだろうか、と当日の朝に考えることすらない。薬なし。完全な素面でプレゼンしている。

失敗したら? この表現も以前の自分と現在の自分の違いを沸々と感じさせる。失敗なんてないんだよ。不安発作が起こらないと思っているのではない。不安発作が起こることは失敗ではないと現在の私は知っている。だから、失敗なんてない。だから、失敗したら・・・・なんて条件節もない。

壊滅的ダメージだって? 不安発作が起こったとしても、それは私に壊滅的ダメージどころか、小さな動揺すら及ぼさない。

大きな不安発作が起こったとしても、私は速やかに回復し、任務を全うするだろう。何一つ問題はない。不安発作を恐れていない。

私は2013年10月16日の記事ではこう書くようになっている。

2013/10/16

社会不安障害を患ってきたことは恥ずべきことではない。私の人生の貴重な一部である。

そして、発作が起きようが起きまいが、必ず任務を果たすので、社会不安障害の症状が出ても何一つ問題はない。恐怖に対する恐怖が消えた。症状が出てもいい。震えてもいい。

速やかに回復し、必ず任務を果たすという自信と確信がある。だから回避しない。

 

これが社会不安障害から回復するということなのだ。やっと分かった。

 

「治す」、「克服する」、「完治させる」

違う。違う。何かが根本的に違うんだ。

社会不安障害の治療過程を語るのに、これらの言葉を使うのは違和感を感じるとはずいぶん前から書いてきた。その違和感が具体的に何なのか、今では分かるようになってきたと思う。

社会不安障害から回復する。それは、症状があるかないかということではない。震えるか震えないかということではない。

症状に見舞われたときに、回復するか ― 回復しないか。

速やかに回復し任務を全うし何のダメージも負わないか ― 壊滅的なダメージを負い、社会不安障害を悪化させていく負のスパイラルに見舞われるか。

その違いだ。

 

2012年7月の私は、不安発作が起これば、その後の私に壊滅的ダメージを与え、再度負のスパイラルに嵌っていくと考えた。ということは、私の社会不安障害の回復状態は回復の途上にあった。危うい部分が残っていたのだから、薬の力を借りたのは正解だった。

2013年10月の私は、不安発作が起こっても、速やかに回復し、その後、そのことについて自責に転じたり、苦しんだりしないという確固とした自信があった。だから、薬もいらない。勝手に回復するんだしね。

 

そんなことを感慨深く思っていた頃、こんなビデオを見て大いに共感した。日本語字幕はまだない。

http://www.ted.com/talks/andrew_solomon_depression_the_secret_we_share

ここでスピーチをしているソロモンさんは深刻な鬱病から回復した人だ。

ソロモンさんは言う。「鬱病の人たちの世界認識って、間違っているって言われるけれど、必ずしも間違ってはいないんですよ」

例えば、鬱病患者群と非鬱群の比較研究 (Taylor 1989) で、こんな実験があった。

モンスターを撃ち落とすというゲームをやってもらう。終わってから、「何匹撃ち落とせましたか」と問うと、非鬱群は実際に撃ち落とした数よりも遥かに多い数を言った。自己評価が高いために自分のパフォーマンスに対して過大に評価し、不正確となっているのだ。

ところが、鬱病患者群は驚くほど正確な数を言った。

その点において、鬱病患者の認知能力は高く、正確であり、間違ってなどいないのだった。

Depressive realism と呼ばれる、鬱病・鬱状態にある人々の方が、正確な認知ができるという現象の報告のひとつだ。

そうなのだ。ぱっと頭に浮かぶ印象が必ずしも間違っているというわけではない。その印象から紡がれていく自動思考が間違っているというわけではない。

毎日、世界のどこかで小さな子供が飢え死んでいる。世界のどこかで戦争が繰り広げられている。

それなのに、苦悩を感じないのか?

地球はそのうち太陽に飲み込まれてしまう。

それなのに、生きる意味なんてあるのか?

そのようなことを考え続ければ、確かに苦悩に襲われる。しかし、間違っているわけではない。

さて、社会不安障害の人々の認知だって、正確な認知と言える部分もある。

考えてみよう。人がたくさんいるのだ。いい人ばかりではない。他人を利用してやろうと思っている人もいる。常に他人を自分と比べて上か下かという単純尺度で評価しようとする人もいる。他人のパフォーマンスなど、なんとかして悪く評価して蹴落としてやろうと考えている人もいる。

事実でしょう。間違ってなどいない。だから、緊張するのがおかしいというわけではない。むしろ、緊張して当然だ。

治療で多用される「認知が歪んでいる」とか「間違った認知を修正する」という表現は、その点において不正確であり、それこそ「歪んでいる」。

そこで、ソロモンさんは言う。「心を病んだということ。それは認知が歪んでいるということも、間違った考え方をしてることも意味しない」

それなのに、心を病んだという事態に際して、考え方が間違っているからではという問いが強調されがちである。そのような問いではなく、大切なのは、レジリアンス(回復力)を高めることだとソロモンさんは強調する。

レジリアンスという概念は、実はどうもはっきりしたコンセンサスがないように思う。(怪しげな文脈で使われがちである)

私はこの記事において、レジリアンスを社会不安障害の発作から回復する力と定義し、その意味の範囲においてこの単語を使用する。

同じだけ恐ろしい経験をした人々の中でも、平気な人もいれば、深刻な鬱やPTSDを患う人もいる。その違いは何か。

それはレジリアンスの違いだ。

ひどく恐ろしい経験をしても、レジリアンスの高い(回復力の高い)人々は平気であり、レジリアンスの低い(回復力の低い)人々は患う。

ここで、念のため言っておくが、レジリアンスの高低は、意思の強さ、弱さ、とは関係ない。現在のあなたのレジリアンスが低くても、それはあなたのせいではない。

レジリアンスは、純粋に回復力だ。

そこで社会不安障害の治療過程を考える。これをたったひとつの言葉で、単純に言い表せと言われれば、やはり

「レジリアンスを高めるということに集約される」

恐れる対象がなくなった今、私は思う。

長い時間をかけて、徐々に、レジリアンスを高めていく。

認知療法で不安対象への恐怖がある程度和らいだとき、それはレジリアンスがある程度高まった状態であり、行動療法のひとつである曝露療法(エクスポージャー)に移行して、不安場面に挑む準備ができる。

不安場面に何度か挑み、不安対象への恐怖がほぼ消えれば、それはレジリアンスが相当高まった状態であり、それまで回避してきたあらゆる場面に継続して挑戦していくことができる。

長いことそれを継続し、不安障害を患っていることへの羞恥心も、不安発作を起こすことに対する恐怖も、消える。それはレジリアンスがほぼ最大に高まった状態であり、万一不安発作が起こったとしても、それがダメージを及ぼすことがなく、速やかに回復する。

この最終段階にまで達すると、万一不安発作を起こした場合も、負のスパイラルに嵌ることなく回復する。負のスパイラルに嵌ることがないということは、その後、同じ不安場面を回避することはない。つまり、この状態に至れば、社会不安障害ではない。社会不安障害から回復している。

どんなにプレッシャーのかかる状況にあろうと、どんなに厳しい評価を下す人たちの間で社会的パフォーマンスを遂行しようと、公衆の面前でめちゃくちゃに罵倒されようと、レジリアンスが高いので、勝手に自己回復する。勝手に自己回復するので「二重三重のセーフティネット」など不要だ。二度と社会不安障害にはならないのだ。

その長い治療と回復の過程においては、焦ることも無理をすることもない。レジリアンスレベルの上昇段階によっては、薬の力を使うこともあるだろう。多大なダメージを負うことを避けるために、不安場面を回避せざるを得ないこともあるだろう。そうだ。去年、私はこんなことを書いた。

回避してしまったと自分を責める必要はない。今の自分の状態にとってはそれが恐怖を及ぼすものだったのだから回避したのは正しかったのだろう。自分の状態についてしっかり向き合う機会につなげていけばいい。

 

レジリアンスが低い状態にあるときは、回避することすら、正しい判断なのだ。だって、そんな状態で、不安場面に挑んだら、大きな不安発作を起こして、さらに強力な負のスパイラルに嵌ってしまうかもしれない。私自身、無理やり挑んだら、さらに大きな発作を起こし、さらに強大な負のスパイラルに嵌り、社会不安障害をひどく悪化させた経緯がある。

だから、無理しなくていい。焦らず取り組んでいけばいい。

 

私はとんでもなくレジリアンスの低いところから、治療を始めた。「私のプレゼンを聞きにきている人々は、大変厳しい視線で評価をしている」という認識があった。

レジリアンスが低かった頃の初期の治療では、「私のプレゼンを聞きにきている人々は、さほど私に関心がない。ランチに何食べようかな、なんて思っている」と思考の流れを変えていくことを目指した。これは損なわれた機能を回復させるという目的のためにとられた一時的な措置だった。

レジリアンスが徐々に高まった治療中期では、「いや、いらしてくださった人々は私の発表トピックに関心があり、発表者としての私には新たな議論を展開させていく役割がある」との認識に変換させた。一時的な措置は放棄した。それでもプレゼンはできるようになっていた。

そして、徐々にレジリアンスレベルを上げていき、何百人もの人々が聞きに来ていても、平気でプレゼンできるようになった。実際、それだけの数の人々の中には、あの発表者をなんとか蹴落としてやれないかと考えている人々もいるだろう。これが現実であり、実際に競争は過酷なのだ。私は現在そのように認識している。そしてこれが状況に対する「正確な認知」であることは否定できないだろう。

このような過酷な認知をもって場面に挑んでも、現在の私は平気だ。

社会不安障害からの回復。その回復した状態は、認知の如何によって定義されるのではない。症状があるかないかによって定義されるのではない。ただ、レジリアンスレベルによって定義される。

完治を目指すというのが危ういのは、治療が主に受容のプロセスであること、完治を目指すことが受容に相反する動きであることが関係している。

「完治」や「克服」を目指すと、目標が「症状」を消すことに設定されてしまう。そこには症状の受容がない。症状が怖いという状態のままなのだ。症状が怖いのでは、回復しない。

最も激しい不安の症状が起こる可能性すら受容できたとき、恐怖が消える。

 

ふと思うのだが、これは社会不安障害の治療に限らない。

夢を持ち、目標を達成させようと努めるのは、素晴らしいことだ。ところが、成功にこだわり過ぎてしまうと、躓いたときに起き上がれなくなってしまう。

最も過酷な困難に見舞われようとも、自己回復する力。

幾度躓いても、起き上がり、自己回復し、歩み続ける。

躓くのは怖いことではない。回復する力さえあれば、躓いたことは貴重な経験へと変わる。

自己回復する力があれば、障害となるものはない。そして、ある日、達成していることに気づくだろう。

 

p.s.


症状が出るのか出ないのかは、ここでは既に問題とならないので本文に書かなかったのだが、「実際に不安発作が起こるのに自己回復するの?」と質問を受けそうなので記しておく。実際には症状が出ない。だから、大きな不安発作を起こした後に自己回復するのを実際に経験したわけではない。症状が出ても平気である状態でいると、症状が出ないので、実際にはそれを経験できない。

 

Reference


Taylor, S. (1989). Positive illusions. New York: Basic Books.

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投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.