ビデオ通話というのは、苦手だった。
けれども、仕事上、使わなければならないことは多い。回避するほどではなかったが、ビデオ通話のアポイント数日前からどんよりという不安に見舞われるというのが常だった。
ところが先日、自分に変化が生じていることに気付いた。ビデオ通話のアポが入っていたのに、自分の様子が全然以前とは違う。
それは、
予期不安がない
それどころか、
楽しみに思っている
ということ。
同じ相手と二年前にビデオ通話したときは、こうではなかった。かなりの予期不安があった。
半年前にも、同じ相手とビデオ通話をした。予期不安はなかったけど、微かな緊張はあった。
今回は微かな緊張すらなく、ただ、楽しみだった。
相手に慣れたのではない。二年前の時点でもよく知っている人だった。
案件が今回楽だったわけでもない。難易度という点からは、自発的に努めて交渉していき、解決に導いていかなければならないという意味で以前のものよりも高度化している。
それなのに、不安が全然ない。
以前なら、予期不安で埋まっていた時間が、すっかりそのまま期待感で塗り替えられていた。
あの人とお話しするのは久しぶりだ。元気かな。議論も有意義なものになるに違いない。楽しみだ。
すごいワクワクする。
一体、どうしたことだろう。
と思って、少し考えてみた。
一年前には、私は不安場面を避けることなくこなせるようになっていた。
回避しないためには、認知行動療法で習った思考記録をしっかり書いてから、不安場面に挑まなければならなかった。
今回は、思考記録なんてやってないし、やろうとすら思いつかなかった。
努めて不安にならないようにしたのではない。全然、努力していない。
ただ、自分を甘やかしてきた。甘やかすと言うと語弊があるだろうか。
この一年ちょっとの間、大小様々な不安場面を前に、こう自分に語り続けてきた。
大丈夫。
私がすべてを背負ってなどいないのだから。
相手がいるのだから、何か不具合が生じた場合は助けてくれる。
相手がいるのだから、専門用語ど忘れしたりしたら、聞けばいい。
分からなくなってきたら、「あなたはどう思う? どうしたらいいだろう」って、聞けばいい。
大丈夫。みんなが助けてくれる。協力してくれる。
自分ひとりでやっているんじゃないんだから、何の心配もいらない。頼ればいいんだよ。
震えたら?
いつものように力を抜いて、呼吸を整えていけば大丈夫。5秒くらい間があいても平気だよ。
もし、それがうまくいかなくって、大きな不安発作を起こしたら?
座り込んで、少し休めばいいでしょう。
数分間があいて、周りの人達がどうしたんだろうって顔していたら?
説明責任が生じるかもしれない。
よし、それなら、社会不安障害のことを話そう。
長いこと不安障害を患ってきたことを話そう。数分で落ち着くし、仕事を再開できますからって言えば大丈夫。
そうしたら、聞いていた人達は、スゴイ!と思うに違いない。そんな障害を抱えながら、これまでずっとやってきたのかと、尊敬されてしまうに違いない。さらに、社会不安障害について、身近に感じてくれるかもしれない。
そして、落ち着いて再開したときには、私の発する言葉を一語一句しっかりと聞いてくれるだろう。これはスゴイことなんだから。
そういうわけで大成功。発作が起きて良かった!
この不安発作が起こった場合にどうなるかという私の想像(あるいは妄想)は、頭の中で幾度も繰り返された結果、今ではものすごく具体性を帯びていて、発作が治まったときにやる社会不安障害についてのスピーチ内容をそらで言うことができる。
皆に社会不安障害のことを伝えることができるのが楽しみなのだ。
実際には、不安発作は起こらない。(不安発作起こしてまでやってスゴイ!って状況にはならないので、結局、内容で勝負しなければならないのはツライところだ)
予期不安すら起こらない。
もう、不安はない。起こり得る全ての過程が楽しみっていうそれだけだ。
ここで大切なことが、ふたつあると思う。
ひとつは、私が不安にならないのは震えないと思っているからではないということ。
震えることもあると思っている。そして、震えようが、震えまいが、関係ないと思っている。
震えたら、結構、いいかもしれない。そう思う。本気である。震えたときに説明するセリフまで考えてあるのだ。
もうひとつは、ひとりではないから平気なのだということ。
だって、周りの人がいるのだから、協力してくれるでしょう。分かってくれるでしょう。
この点は、180度の転換である。以前は、人がいるから、不安になった。今は、人がいるから、安心できる。
そして、さらに大切なのは、人を信じなさい! 何だって人を信頼できないの! と自分に言い聞かせて、この状態を達成したのではないということ。
一年ちょっとの間、自分を甘やかし続けて、この状態になったのだ。いいんだよ、自分ひとりでやってるんじゃないんだから、頼ってしまえば、それでいいんだよ、と言い聞かせ続けて、そうしたら自然にこういう状態になっていたのだ。
長いこと私はひとりだった。私が身を置く世界は、私に対して厳しい。そう考えていた。
何もかも、最初から最後まで、ひとりでやらなければいけないと思っていた。それが責任というものだと思っていた。
だから、ひとり、重い荷を背負って、高い所に登っていって、ただひとり、細いロープの上を、歩いていこうとした。さらに、さらに上へと向かって行こうとしていた。誰も助けてなどくれないと思っていた。協力してくれるなんて思うことなどなかった。そんなことを期待するなんて、無責任の象徴だと思っていた。
あまりに高いところを行こうとするので、周りの人など見えなかった。遥か遠くに行ってしまって、人の視界に入らないし、誰も私に手を差し伸べることなどできなかった。
そんなところをひとり進んで行こうとしたって、声など届かないし、バランスを崩して落ちてしまうのは、当然かもしれない。
今は、地面にべったり腰を下ろしている。ここなら、人が周りにたくさんいるから、手の届く場にいるから、何かあったらすぐに助けてもらえる。
小さな一歩を踏み出す度に、協力してもらう。そんなつもりでやっている。
これなら着実に進んでいける。何だってできる。
周りを頼ることができて、初めて人を信頼することができる。それができたとき、世界は突然私の見方となり、守ってくれて、そのおかげで何もかもうまく廻るようになってきた。
だから、例えばプレゼンのとき、聴衆の数が多いほうが安心する。10人より100人のほうが10倍安心。だって、人が多ければ、協力してくれる人も多いのだから、楽になるのは当たり前でしょう。ホント、心強い。
予期不安で、何日も恐怖の中で生きてきたのが、期待感の中で希望に満ちて生きられるようになった。
生まれて初めて、本当の意味で人を信じられるようになった。初めて、本当にひとりではないのだ思えるようになった。同時に、初めて、本当の意味で、幸福になれたように思う。