他者との壁

ほぼ消えていた社会不安障害の症状は、このところ、さらに溶けていくかのようになくなってきた。以前は体が硬直状態になっていたような場面でも、比較的楽にこなすことができる。

大きなプレゼンは今年に入ってからはまだやってないけど、小さなプレゼンのような場面は多々ある。ちょっとこの部分について話してほしいとか、5~10分くらい話すような場面を突然与えられてしまうことは日常的にある。

そんなとき、かつて感じていたレベルの不安がない。薬も使っていない。

楽しく話して、こちらも相手も満足して終えることができる。一年ちょっと前は、こういうことはまずなかった。

何が違うのか。

自分が違っている。

話を始める際の心の状態が以前とは違っている。

一年ちょっと前は「最初から最後まで私が責任を持って説明して、聞く人をしっかり理解させなければならない!」

という姿勢で挑んでいたのが、今では、

「私と聞く人たちで半分ずつ責任を分け合い、共同作業をすすめよう」という感じで、ゆるゆる~っと始めます。責任を次から次へと譲渡していくように努めている。こうするとやたらとうまくいく。

これを何度かやって、これがうまくいくと分かったとき、かなり衝撃だった。なんでよって感じ。今まで私はあんなに頑張っていたのにそれで不安になって、頑張らずに責任を譲渡したらうまくいくようになるなんて。頑張らないほうがうまくいく。それはものすごく意外な事実だった。

これはやはり、分け合うというのがいいんだな、と最近になり納得した。

責任を他に押し付けているんじゃない。独り占めせずに分け合っているんだ。

たとえば、質問があったとき。

以前は質問を受けたら、ものすごいエネルギーで頭をフル回転させ、瞬時に質問に対する回答を出し、それをひとりでしっかり説明し尽くすということをやっていた。それはよろしくない。

今では質問を受けたら、「そうだねえ~それはねえ~ うーん、こりゃまた、いいとこ突いた質問だねえ~」みたいなことをつぶやきながら、ゆるゆるに体から力を抜き、そして必殺技の質問返し。

「なんで、そう思ったの?」みたいに。

すると、相手のLさんは話す。「それはね、AのことやBのこととの関連で考えると、不思議だなって」

おーっ、そうだったのか! そこまできて、はじめて私はLさんの質問内容を理解する。AやBとの関連で考えたから、Lさんの頭にクエスチョンマークが出たんだ。

そこまでが明らかになれば、私はLさんが不思議に思うに至った過程をLさんと共有できる。

そこで私は、「AやBからの見地で考えると違和感あるよねえ。私はそこから全く離れてCとの関連で考えてやってたからねえ」とLさんの視点に立って語ることもできる。

するとLさんは、「Cのことは考えてなかった。なんか、AやBのことで頭いっぱいになってて。Cでいけばいいのかな」

そこで私は、「私がやったときはそれで整合したけど、どうだろうねえ。やってみて、どうなるか分かったら教えてよ」と、またまた質問形で文を結ぶ。あくまでも断定的なことは言わない。責任を負わない。質問返しの術を連発。

Lさんは、じゃ、やってみる、と楽しそう。

そうだよね。私も、これから、やってみよう!と思うときって、楽しい。任されるのは楽しい。目的や希望を共有するのは楽しい。自分のこれからする仕事の行方に興味をもたれると楽しい。責任を譲渡してもらえるのは楽しい。

速攻で提供される回答? そんなものはね、そもそも的外れで大間違いなんだよ。

最近は、もっぱらこんな感じで対人的なことをこなしている。これでうまくいく。

これが以前の私だったらどうなっていたか。

Lさんの質問を受けた途端、答えを差しだし、ひとり説明を始め、体は硬くなり、手からは汗が出てきて、さらに調子が悪いと震えてしまう。

しかも、LさんがAやBとの関連で見ているという情報を得ることなく、ひとりよがりに導いた答えなので、それは概してLさんにとって的外れで、いまいちピンとこない。

Lさんも会話がかみ合わないような気がして、なんだか焦ってしまう。

ふたりとも緊張しておしまい。緊張の無駄遣い。SADまっしぐら。

なんだって、これまで分からなかったんだろう。なんだって、相手の思考の過程を知ろうとしなかったんだろう。共有しようとしなかったんだろう。でも、ホントに分からなかったの。皆さん、今までゴメンナサイ。

私はほんの半年くらい前はこのことを知らなかった。6か月前、去年の学会発表のときは、私の認知はここまで改善されていなかった。それは、あの時に自分が書いた記事を今自分で読み返すと分かる。

あのとき、発表はこなすことができた。

けど、なんだろう。かなり独りよがりです。

質問があったって。分析ソフト、いくら?って聞かれたって。タダなんだよって言ったら、みんなメモしたって。

そんなことは聞かれる前に発表に織り込んでおけばよかったじゃないか。どこだって、資金不足なんだから、聞いている人たちがそういうことを知りたいって予想くらいできるでしょ。できなかったの? 未熟者だなあ。

ソフトの使い方、難しそうって言われたって。

確かに認知療法の時、聴衆はさぼど発表に注意を向けていなくて、基本的に自分のことしか考えてないって習った。でも、それは、SADもちである私の注意の対象を聴衆から遠ざけることを目的とした方法上の措置であったわけで、聴衆否定に終始することが目的では決してなかったはずだ。

高度資本主義がアカデミアを駆逐している。それはある。けど、それはまた、別の問題でしょう。ソフトの使い方は簡易であればあるほどいい。それは社会のあり方がどうであっても変わることのない事実でしょう。だから、「それって使い方難しいよね」と言われたときに、せめて、それを指摘した人と気持ち的に同じ場所に立ち、質問返しをしながら、いかなる点で難しいのかを明らかにしていったら、改善点を導くことのできるような有意義な議論が展開されたかもしれない。きっとそうだ。今なら分かる。

発表を聞きに来てくれた人達は、ランチはピザにしようとか、考えてたかもしれない。けど、まっすぐピザを食べに行くのではなく、私の発表に立ち寄ってくださった。なにか有意義な情報を得ることができるかもしれないと期待して来てくれたのに、その人達が何を知りたいのかということを発表者である私はあまり念頭に置いていなかった。

そりゃ、ダメだよ。聞く人の側に立つことから始まるんだから。

By: Heather Cowper

対話するっていうのは、そういうことだったんだな、と思う。

自己と他者の間に建つ壁を取り払っていく。壁が低くなったら、あちら側に行き、他者の側に立つ。そして、ひとつになるような気持ちで、共有して、語らう。

プレゼンもそう。聞く人と対話する。

聴衆の数が100人以上だと難しくなってくるかもしれない。それでも、プレゼンの最中に、ひとりで話し続けるのではなく、聞いている人たちにいくつか問いかけることは可能だよなあ、と今では思う。そうすることで、ただ独りプレゼンするのではなく、聞く人との共同作業で進めていく。そういうことができるようになれれば、素敵だなあと思う。

半年前の私は知らずのうちに高い壁を周りの人との間に積み上げてしまっていた。

そして、壁に向かって、独り語りしていた。壁があったら向こう側に聞こえないのに。

壁が低くなれば、せめて互いの顔が見えるくらいの低さになれば、ようやく対話できる。

そして、

自己と他者を隔てるものがなければ、焦る対象もない。壁がなければ、社会不安障害にすらならない。

半年前の私はひどく未熟者だった。

以前の私だったら、半年前の自分が至らなかった点に気づいたら自分を責めまくったことだろう。

今では至らなかった部分が見えてきてもそれについて客観的に考えられる。自分を責めて悲劇的・絶望的になっても何の役にも立たないと知っている。あの点とこの点が至らなかったな。じゃあ、次回はどうすればもっと良くなるかな、と冷静に考えられる。

半年後の私も、半年前の私は未熟者だった、と同じように言うかもしれない。

そうなれば、さらによくなってきているということだ。だから、今もきっとすごく未熟者なのだけれど、明日は少しはよくなる。そう思うと、ちょっと楽しみになってくる。人生が楽しくなってくる。

投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.