「シャイなのではありません。社会不安障害なんです」

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外見で判断してしまうと本質が見えない。

社会不安障害(SAD)は、まさにそれ。外見(あるいは、症状の話を軽く聞いた感じ)からは、その表面的な特質のみからは、この病理的な不安のメカニズムを想像することは一般的に困難だ。

「それって、性格だよ。心配いらないよ」

と、優しく言われる。

SADとは性格のカテゴリーである

という表面的特質から導かれた印象は、疑われることもなく、様々な善意のアドバイスが繰り広げられる。

「わかる、わかる。恥ずかしいって思うこと多いヨ! プレゼンで緊張するのは、みんなそうだよ」

と共感してもらえるパターン。

ありがとう。理解を示そうと気遣ってくれたことに対して礼を述べる。でも、違う。違うんだ。

あなたは緊張しても避けることなくやる。そこにあの病理的な不安はない。

そこには身体症状もない。激しく身体が震え、気持ちの悪い汗が流れてきて、声も震え出し、精神が統制を失い、ばらばらになっていく。そうなると、言葉を制御しきれなくなり、意味不明の言葉を発してしまったりする。

そんなふうにはならないでしょう。程よく緊張して、仕事して、その後は「あ~ やっと終わったよ。スッキリした!」とビールでも飲みに行くのでしょう。それで終わりでしょう。

だから、そこには負のスパイラルもない。

予期不安 → 不安発作(あるいは回避) → 罪悪感 → 不安障害悪化。

終わることなく繰り広げられる負のスパイラルは、一回転毎に確実に傷を刻んでいき、そして確実に人生を蝕んでいく。その負のスパイラルから逃れたいと強く願うのに、全力で頑張っているのに、もがけばもがくほど手足を強く縛りつけられていくようなあの感じ、抜け出せないと感じるときのあの絶望感。

さらに、そこには他の精神疾患の併発もない。多くのSAD患者は他の精神疾患を患っている。

健康な人が、健康な緊張感をもって、健康に社会的場面に挑むのと、鬱、PTSD、パニック障害、摂食障害、不眠症、自傷癖等を、SAD発症以前から患っている人が、あるいは、SAD発症の結果として患っている人が、社会的場面に挑むのとを同一線上で語る。無茶だ。

 

「シャイであることを認めない社会がいけないと思うの」

と社会に責任転嫁してくれるパターンも多い。

ありがとう。私のせいじゃないと言ってくれてるんだね。シャイであってもいい。受け入れる。病気ではない。でも、これも違う。私はシャイではない。

シャイであるという性格を異常として、治療するのか。そんな社会っておかしい。どんな性格でも認められるべきでしょう。彼らはそう主張する。

世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな価値観があり、様々な差異は互いに尊重されるべきだ。その点については全く異論はない。でも、それと、これとは、違うんだ。異なる範疇の事象を一緒くたにして議論してしまっている。

SADを性格とする誤解はSADにまつわる様々な陰謀説に繋がっていった。

SADなんて存在しない。創られたのだ。捏造されたのだ。構築されたのだ。社会や製薬業界によって発明された概念であって病ではない。そう彼らは考える。

SADを社会的構築物とするトレンドの流れには、SAD=シャイな性格 という構図を疑ってみるという過程は含まれない。それらは都市伝説化して世界を席巻していく。構築されたのは、むしろ、叫び続ける彼らの声のほうだ。コワイ。理性の終焉か。

 

「SADというのはとかく誤解されがちで、アメリカでも言葉は知られていても、あまり正しく認識されていないのは根の深い問題だと思う」

ブログを通してお話ししたアメリカの方が私にそう言ってくれたとき、その通りだと思った。

陰謀説はアメリカ発祥であり、世界中に輸出されている。

SADの認知度が高まってきても、SADは性格の一種であり疾患ではないと誤解されて世間に伝わっていく危険性がある。なにしろ、陰謀説をはじめとしたSADに対する誤解がメディアや一般書を通して世界を巡っていくパワーを考えたら、それが日本でも現実となってしまう可能性はある。

 

米国国立精神衛生研究所(NIMH)が、SADとシャイな性格との関連を調査した。その結果を基に「SADはシャイな性格とは異なる」とSADを巡る陰謀説の暴走に警笛を鳴らしたのは2年前(2011年)のことだ。

それは、SAD=シャイな性格 という図式を問い直すというSADを巡る動きとしては大きな事件と言ってもよいと思うのだが、意外なことにあまり知られていないし、その調査結果が何を意味するのかといった本質を問う議論はあまり見ない。

今日でも、「シャイで恥ずかしがりなのも程度の問題であり、ほどほどにシャイである場合は治療の必要はなく、著しくシャイである場合はSADとする」

といった類の、SADを恥ずかしがりの延長として表現する文章は多く散見されるし、

陰謀説のほうはと言えば、NIMHの調査結果など聞こえないのか聞く耳を持たないのか、あるいはそれも陰謀の一部と捉えるのか、彼らの声は止むどころか高まるばかりである。

 

「SADなんていう病など聞いたことがない」という空っぽの認識が、「SADは性格だから、性格を治療するのは反対」という誤った認識に変わってしまうのなら、SADについての正しい理解は広まらず、SADに悩む人々の状況は好転しない。

SADを知ることは難しく、SADになった人にしかこの苦しみは分からない。その通りだ。

専門家や治療者であっても、十分にSADを理解できている人は少ない。やはりそれは、症状について聞いてみた感じでは、極度のシャイであるような印象なので、SAD=シャイ という図式に疑問も違和感も抱かないためかもしれない。

ならば、専門家や治療者といった人達任せにせず、違和感を抱き続ける当事者が、SADという病を患うとはどういうことなのか説明していかないことには、誤解は解けない。

SADを患うということの意味は、SAD当事者にしか分からないと知っていながら、あらゆる手段を利用して正確に伝えようと努力せずに、誤解が広まっていくのを放置しているのは、当事者の怠慢の結果なのかもしれない。

そう自分の怠慢を反省しはじめたら、なんだか全て自分に責任があるかのような思いが脳を駆け抜ける。そうだ。SAD的な自動思考。

この自動思考のエネルギーを効果的に変換して、SADが性格とは異なるということについて、そしてSADが誤解されてきた歴史について少し調査して、当事者の立場から考察してみた。これらの作業は三か月前(9月)に開始して、時間を見つけては書き足していったが、延々と続いていき、終わらない。あまりに長くなってしまったので、記事を分割することにした。


今回の記事は、SADは特定の性格と結び付けられるべきではないこと、SADを患う人達の性格は多様であること、治療は患者が本来の能力を発揮できるようになるために必要であり、決して 恥ずかしがりの性格を病気ということにして投薬する という性質のものではないことを、SADを巡る最も大きな誤解の潮流:SAD製薬業界陰謀説と絡めて述べたい。

最後に、精神疾患について語ることではなく、精神疾患が存在しないものとして語ることをよしとする風潮について考えてみる。SADは存在しない発明された病だとする言説を、出版等様々な形で広め利益化していこうとする動きのもたらす危険性についても言及していきたい。

 

性格って何?

性格という抽象的な言葉を定義せずにSADを性格とするから、本質が空のまま議論は妙な方向に進行していき、誤解が深まってしまう。

しかし、その定義は学術的にも複数のヴァージョンが存在するし、個人レベルでも異なるかもしれない。

この記事では、性格を、

個人がもつ本来の性質や能力

として、広めに定義しておく。

 

「恥ずかしがりの性格に投薬するの?」

2001年米ニューヨークタイムズマガジンに The shyness syndrome (恥ずかしがりシンドローム)という題名の記事 (Talbot 2001) が掲載された。ここからSAD製薬業界陰謀説が本格化する。

「近年、SADであることを公表する芸能人が次々に現れて、SADの認知度が高まってきた」 ジャーナリストの Talbot 氏は、論じていく。「しかし、病気ではないものを病気とすることには、常にコストが伴うのだ」

さらに主張は続く。SADという病気を発明することにより、性格にまで投薬できるようになり、そうやって製薬業界は利益を増大しようと企んでいるとする。そしてSADを病気とする流れを medicalizing shyness (恥ずかしがり屋を病気と仕立て上げる)として、強く反対する。この陰謀説は現在でも強い。

SADへの薬物治療の効果や製薬業界との癒着の可能性に関してはここでは述べない。しかし、仮に癒着があったとしても、それは癒着にとどまるはずだ。そのことがSADに実体がないとか、発明されたという主張の証明にはならない。

しかし、「疾患を発明した」と言ってしまったほうが、スキャンダラスであり、確実に世間を賑わすことができる。

製薬業界の陰謀を暴くといったジャーナリズム的論調を優先するために、根拠もなくSADを恥ずかしがり屋 (shyness) と同義とし、SADに治療は不要だとする説を、タイムズ紙という世界的に巨大なメディアが世間に広めたことは、すぐに専門家から問題視された。

ジャーナリストの呈した恥ずかしがり屋に医療行為を行うことになるのではという不安に対して、学術誌 Society of biological psychiatory の論説はこう答える (Insel 2002: 3):

社会不安障害には、恥ずかしがり以上の、視線に対する恐怖以上の、人前で何かを遂行することへの不安以上のものがある。社会不安障害を障害と定義するものが何かと言うと、それは結果としての欠陥・障害 (impairment) である。

結果としての欠陥・障害とは何か。

ここで使われている impairment(欠陥・障害)の語感は、多くの社会不安障害を患う人達が語るあの「鎖に繋がれた感じ」に近いと思う。

やりたいのに、やる能力はあるはずなのに、やり方は分かっているはずなのに、いざ、その場面に身を置くと、やろうとしていた社会的行為ができない。

飛び立とうと翼を広げようとした鳥が、その瞬間、翼をもぎ取られていたことに気付く。飛べない。突然、行為を遂行できなくなるときの、あの恐怖。

「自分がピアニストであると仮定すると」 私は一般医に自分のSADの症状についてこう説明したことがある。「頭の中にはなめらかに音楽が流れている。演奏技術もある。ところが、いざ、ピアノを弾こうと鍵盤に手を置くと、指がないことに気付く。そんな感じです」

あるではないか。実際にはあるではないか、と言われるだろう。その通りだ。ある。確かに、ある。あるけれど、機能しないのだ。機能しないから、ない。できない。

ない、ということが、他の人には見えない。

欠如・欠陥。それは行為を実行する機能を失うこと。

障害。それはやりたいのにできないこと。

結果としてできないから障害なのであり、その点においてSADは定義される。

Society of biological psychiatry の論説は、ニューヨークタイムズマガジンの読者達が、問題の記事の三か月前に開催されていたSADのシンポジウムに参加していたら、SAD治療は性格に投薬するという性質のものではないこと、そしてSAD研究の重要性について理解してくれたはずなのにと嘆く。

そうかもしれない、とは思う。同時に、少々楽観的な印象を覚える。

SADシンポジウムにて、偏りの少ない情報が一般の人達に提供されれば、学術的なプレゼンを聞いてもらえば、正しい知識が一般に広がっていく。理論的にはそうかもしれない。現実的には、残念ながら、そうではなかったりする。正しい理解が広まらない。ツマラナイからだ。

それに対して、ニューヨークタイムズマガジンの記事は楽しい。製薬業界が利益を増大していくという目的のもと、正常が異常とされていく。そのうち皆が異常とされ投薬されてしまうよ。

正義と悪の闘いという単純な図式にはめられた陰謀論。分かりやすくて、ちょっとコワくって、ワクワクする。だから広まっていく。

仮にニューヨークタイムズマガジンのジャーナリストがSADシンポジウムに参加したとしても、そのことを記事にするだろうか。売れないネタを書くだろうか。

繰り返すが、SADシンポジウムは問題の記事が掲載される三か月前に開催されていた。大手メディアがその内容について全く知らないまま、三ヶ月後にSADに関する記事を書くだろうか。

 

多様な性格の人がいる。SADの性格というものはない。

社会不安障害にまつわる都市伝説をひとつ、払拭させていただきたい。

社会不安障害を恥ずかしがり屋を誇張して言う表現だとする都市伝説は、不安障害の人々が単に意思の弱い、容易に感情に屈してしまう人だという偏見を助長している。僕が思うに、人々が善意から「心配しなきゃいいんだよ」、「ただ、やればいいんだよ」、「恐怖と対峙しろ」などと無神経なことを言うのは、この都市伝説が一因となっている。

The Silhouette

長くSADを患ってきた Chris Alaimo 氏はカナダのマックマスター大学学生新聞に書く。

「SADである僕に言わせれば、社会的場面においてぎこちなくなるのは、場面に対する恐怖からきていて、それが会話の自然な流れを妨げるという、恐怖が結果として余儀なく呈する症状なんだ」

続けてこう訴える。

「シャイであることが原因でSADとなることもあれば、SADである結果としてシャイであるような症状がでることもある。それは人による。実際に、SADの人が恐怖対象ではない種類の社会的な場面、あるいはパフォーマンスをする状況にあるとき、全然シャイでないというのはよくあることだ」

”So stop telling me that I’m just shy.” と宣言して記事を結ぶ。

同様に、心理学系サイトの記事には、こんな記述がある。

実際のところ、SADの人達が、概して、背後に消えたような存在になってしまうとか、大人しいとか、対人的に洗練されていないとか、孤立しようとするとか信じているのは、根拠の薄い社会的通念でしかない。

そして最初に述べたNIMHの調査結果も、SADを短絡的にシャイな性格と結び付けるべきではないことを示している。それなのにSADにまつわるステレオタイプは消えない。

SADと短絡的に結び付けられたステレオタイプはたくさんありながら、どれも根拠が薄い。

 

社会不安障害であるとは、人目に触れるのを恐れる性格を意味するのではない。社会不安障害であると同時に、目立ちたがりである人がいるし、病のために人目を恐れていても本来は目立ちたがりであったりもする。

社会不安障害であるとは、暗いということではない。社会不安障害であると同時に、明朗な人がいるし、病に苦しみ一時的に落ち込んでいても本来は明朗な人であったりもする。

社会不安障害であるとは、後ろ向きな態度の人だということにはならない。社会不安障害であると同時に、たくさんの前向きな夢を持っている人がいるし、病のために一時的に後ろ向きになっていても本来は前向きであったりもする。

社会不安障害であるとは、対人能力の欠如を意味するのではない。社会不安障害であると同時に、高度な対人能力を有する人がいるし、病のために対人能力を高める機会を失い一時的に対人能力が低くなっているだけで、高い対人能力を発揮するポテンシャルを秘めた人もいる。

社会不安障害であるとは、コミュニケーション能力の欠如を意味するのではない。社会不安障害であると同時に、コミュニケーション能力の高い人がいるし、病のためにコミュニケーション能力を高めていく機会を失い一時的にコミュニケーション能力が低くなっているだけで、高いコミュニケーション能力を発揮するポテンシャルを秘めた人もいる。

社会不安障害であるとは、人嫌いを意味するのではない。社会不安障害であると同時に、人と関わるのが好きな人がたくさんいるし、病のために引き籠っているようでも本当は人が恋しくてたまらない人もいる。

 

実際は、SADの性格などというものはなく、いずれのステレオタイプにも当てはめられず、SADの人々は多様な個性に溢れている。

 

シャイであると人生が複雑になることがある。SADになると人生が終わってしまうことがある。

とシャイとSADの違いを説明する医療系情報サイトの記事がある。

不安障害に詳しい精神科医の Sy Atezaz Saeed 氏も、SADの特質を、「それは機能の欠陥・障害をもたらすという点です」と述べる。

ジョンズホプキンズ大学医学部で不安障害クリニックを指揮する Rudolf Hoehn-Saric 氏は、SADに罹患することによる機能の欠陥・障害の結果、患者の人生にどれだけ深刻な状況を引き起こすのかについて、多くのSAD患者と接してきた具体的な経験からこう語る。

非常に有能でありながら、自分の能力よりも遥かに低い職に就いているSAD患者さんたちを治療してきました。なぜ彼らがそうなってしまうのかと言うと、SADになると、昇進を申し出ることも、就職活動を行うこともできなくなってしまうから。

記事は、このようなSAD特有の機能の欠陥・障害が、SAD罹患者の70%が社会経済的に低い階級にあることや、50%近くが高校を卒業できていないことの理由であろうと考察。SADになるということの深刻さは、単にシャイであることとは比べものにならないと指摘している。

誤解からの解放 障害からの解放

SAD治療とは、シャイを治療することではない。

SADはシャイではないし、特定の性格や気質と結び付けられる疾患ではない。

SADを患う人々は、多様な性格を持ち、多様な能力に満ちている。

ところが、SADという疾患のために、一様にシャイであるかのような症状を呈し、本来の能力を発揮できないでいる。

SAD治療とは、その症状の鎖から患者を解放し、本来持っていた性格・能力を発揮できるように、社会で活躍できるようにしていくことであり、それは同時にSAD患者がようやく人間らしく生きられるようになるための重要な過程なのだ。

 

References


Insel, T. (2002). Social anxiety: from laboratory studies to clinical practice. Society of biological psychiatry, 51, 1–3.

Talbot, M. (2001, June). The shyness syndrome. The New York Times Magazine, pp. 11–12.

投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.