『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の主人公黒木智子が激しくSADであることについて思う

下の画像は世界のSAD(Social Anxiety Disorder:社会不安障害)当事者達の間で今話題になっているアニメの第一話のワンシーン。

watamote

主人公の女子高生黒木智子が学校の門を出たところで、先生に「気をつけて帰れヨ」と声をかけられ、硬直。声が出なくなり、挨拶もできなくなり、焦っているシーンである。

日本のアニメであり現在放映中らしいが(オフィシャルページ)、このアニメについて知ったのは私がゆるく繋がっている日本国外のSAD達からの情報だった。

なにしろSADという精神疾患を舞台の中央に置いた初めての漫画であり、大変画期的であると当事者たちに称賛されている。SADに悩む世界の多くの人々がこのアニメを見て「共感した」、「泣いてしまった」とネット上に書いている。

漫画として有名になったのは海外でのことで、いわば逆輸入的に日本でも広まったらしい。

観て思った。この主人公は激しくSADである。人に話しかけることを考えるだけで異常に緊張する。教科書を忘れても貸してと言えない。ファストフード店に入っていくのも緊張する。

鬱、希死観念、摂食障害、とSADと併発しがちな疾患を網羅している。

それでいて努力家である。明るくなりたいと願い、社交的なキャラ設定を確立させるため日々頑張る。ああ、それはよくないよ、と思った。SADの人の中には、そんな努力が達成され、明るいキャラが確立できてしまう人達がいる。いちどそうなると、場を盛り上げるという目的だけのために自動的にケラケラ笑ってしまう癖がつき、本人は自分の本当の感情すら分からなくなってきてしまったりもする。そこまで歪んでしまうと自分の感情と向き合えるようになるまでには結構時間がかかる。

そして絶望的な精神を抱えつつ、妙に前向きなのだ。第二話の始めのほうでは「そうだ、大切なのは過去を振り返る事じゃない。今何をするかだ」などと言う。話のあちこちで、「これから」とか「未来」とか を強調する。なんか似てないか? そうだ、少し前に私は『社会不安障害になったのは当事者個人の責任か』の記事を「責任とは未来に向かって発生するものなのだろう」で締めた。しかもこのコの理屈っぽい口調。やばい。似てるぞ。

それにしても露呈されたのは、日本国内ではこのあまりにもSAD的なアニメ番組がSADを描いていると認識されないということだ。

ストーリーに社会不安障害なんていう言葉は出てこないし、「喪女」とか「モテない」といったラべリングしか行われない。疾患名は出てこない。むしろ、斜めから弱い光を当てていって症状の輪郭を出していくような、そんな描き方だ。

それでも、海外の多くの人達は、このアニメを観て、主人公はSADだと認識する。「watamote social anxiety disorder」で検索してみると、たくさん出てくる。

日本国内では同じものを観ても、これがSADなのだと認識されることはほとんどない。このコ、コミュ力、全然ない、みたいな性格的なものとして捉えられる。

これはSADに対する認知度の違いである。今回、このアニメが出たことで、認知度の違いが露呈されたのだ。

 

海外のブロガ―がものすごく鋭い分析をしている。二件ほど紹介したい。

サイト1のブロガーは『Watamote』はコードで描かれていると分析している。

コードで描かれているとはどういうことか。観る人がどれだけ頭がいいかとか、アニメ鑑賞経験がどれだけあるかとかは関係なく、観る人が鬱や社会不安障害を患う人(あるいは観る人自身がそうであるか)を知っているかどうかにかかってくるということだ。今では私は 谷川ニコ が女性と男性のふたり組の漫画家であると知っている。そして私は確信を持って言える。(ストーリーを書いた)男性漫画家はこの疾患に悩んだことがあり、この漫画シリーズを書くにあたり自分が何をやっているのかはっきりと分かっているのだと。(主人公である)Tomokoの言うこと、振る舞い方は、この疾患の身近で育ってきた人々に向けて放たれたコード化されたメッセージで満ちている。

サイト2のブロガーはアメリカと日本のSAD環境の違いを指摘する。

もしTomokoがアメリカ人であったなら、社会不安障害と診断され、抗鬱剤を処方され、たぶん強力な認知行動療法のコースを受講させられる。それは日本では起こらない。日本で彼女が助けを求めたら、自分の全力を尽くして頑張ることが大切だとお説教され、「病気じゃないんだから、薬なんか飲むな」というありがちな叱責を受けるだろう。

ずいぶんと日本通ですね…。参った。

その通りだ。日本のごく普通の家庭において、SADは理解されない。甘えるなと叱責され、出口は閉ざされ、負のスパイラルに向かう。薬を飲むようになっても、それだけでは治らないことも多く、むしろ薬の依存症に陥る危険もあるし、SADに最も効果があるとされている認知行動療法は日本ではなかなか受けられない。


確かにSADを巡る日本の状況は悪いかもしれない。

けれども、アニメも出たことだし、良い方向に向かうかもしれない。認知度が上がるかもしれない。

もし、SADを患うひとりひとりが、何も言わなければ、何もしなければ、何も変わらないだろう。

昔読んだ本であり、きちんと引用することができず誠に申し訳ないのだが、確か法学関連の本で、ドイツだかイギリスだかの作者であり、大変感銘を受けた一節がある。(追記:下記コメント欄参照)

もしあなたの権利が侵害されていたり、差別や偏見・無理解に晒されていたりすると思うなら、必ず主張しなさい。それは自己中心的な行為ではありません。あなたの義務なのです。一部の者が社会で不利な状況にあるなら、それを指摘し、状況を修正させていくよう声を上げて主張しなさい。そうすることで、徐々に社会は変わっていくでしょう。あなたの世代では変わらなくても、あなたと同じ状況に生まれる次世代の人々が不利益を被らないほどに社会を変えられるかもしれません。声を上げる者がいなければ、社会は変えられません。ですから、主張することは権利である以前に社会人としての義務なのです

ひとりひとりが声を上げていくことで社会での認知度を上げていき社会制度を改善していこうとする思想は、確かに欧米社会の隅々まで根付いており、社会における精神疾患をめぐる認知度の向上に貢献している。

しかも、現代では、情報を簡単に広めることができるので、声を上げるのは難しいことではない。

たぶん、仮に製作者側が特定の疾患を念頭に置いていたとしても、特定の精神疾患名を盛り込むことは、あらゆる問題を孕めてしまうので、できないだろう。漫画の作者がSADであるかもメッセージを込めたのかどうかも本当のところは分からない。あえて、そうだと仮定してみて、メッセージに応えると考えてみてもいいかもしれない。だから当事者がやっていけばいい。

大切なのは過去を振り返る事じゃない。今何をするかだ。

毎日絶望的な精神を抱えつつ、常に前向きでいたい。それはたぶん、とてもSAD的なことなのだ。

wat

 

投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.