治す。克服する。
精神疾患や発達障害を語る際にどうも違和感を漂わせる言葉。
「治らないって言うのか? 治ると信じないなんて後ろ向きな姿勢だ!」
と言われても、いや、風邪が治るように治るというふうなものではないから…と口籠るように言うしかない。
「克服しないだって? 努力を怠るつもりか!」
と言われても、いや、こればかりは当事者本人に全責任を負わせるべきものではなく、本人の努力のみが解決の手立てではないから…とこれもまた口籠るように言うしかない。
その違和感は、変えることのできるものと変えることのできないものの狭間を漂う困難さと関連しているように思う。
そんなとき、『ニーバーの祈り』を思う。『ニーバーの祈り』は世界中で様々な依存症や障害を患っている人々が、回復へ向けての力を与える祈りの言葉として広く知られている。
そこに語られる、<変えることのできるもの>と<変えることのできないもの>。
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- God, grant me the serenity to accept the things I cannot change,
- The courage to change the things I can,
- And the wisdom to know the difference.
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Serenity Prayer, Reinhold Niebuhr
- 神様、どうか私にお授けください変えることのできないものを受け入れる冷静さを変えることのできるものを変えていく勇気をそして変えることのできるものと変えることのできないものを識別する知恵を
『ニーバーの祈り』
― 変えることのできないもの
変えることのできないものを受け入れるのは、さほど困難ではない。変えることができないものなら、受け入れるより仕方がない。
― 変えることのできるもの
変えることができるものを変えていこうとするのは、さほど困難ではない。変えることができるものなら、日々少しずつの訓練を重ねていくことで変わっていくだろう。
― 変えることのできるものと変えることのできないものを識別する知恵
これは難しい。
変えられるものと変えられないものさえはっきりと分かってしまえば、後は簡単なのだ。受け入れるべきものと、努力して改善すべきものが分かるなら。
そこがはっきりすれば、周囲の理解やサポートも得やすい。変えられないものについて、「努力が足りない!」などと言われず、互いに納得して社会生活を送ることができるだろう。
この難題に対し、最近私は自分なりの答えを得た。
変えられるものと変えられないもの。それは決定されていないのだ。
あるとき変えられないものが、次の別のときは変えられるものになっているかもしれない。変えられるものと変えられないものの間に引かれた線は、常に動いている。だから、分かりにくい。
では、どうするのか。
そのとき、そのとき、変化していく線を追っていくしかない。やってみて、自分がどこまでやれるのか、検証する。毎回が実験だ。
やってみて、ここまでだ、と思える限界が見えるだろう。そこで終わりではない。そこから、限界と感じられるところのもう少し向こうへ挑戦してみる。するとできなくなる。そこまでだ。
できないと判明した部分については、自分の仕事ではない。そう割り切る。代わりに、サポートを得るために力を尽くす。サポートを得られれば、仕事が成し遂げられる。要は、成し遂げられればいいのだ。
数ヶ月前、学会発表をやった。
そのとき、発作も起こらなかった。全て順調に思えた。
しかし。
そこは超大講義室だった。小さな学会発表なのに。
そういう場合、大抵の学者さんは前から2~5列目あたりに座る。実際、そのときも聴きにいらした方々のほぼ全員が前のほうに座った。しかし、なぜか二名の方々は、最後列に座ったのだ。超大講義室の最後列。遠目にしか見えないが、どうやら学生さんである。
私はプレゼンを始めた。しばらくすると、
「聞こえませ~ん!」
最後列の学生さん達が叫ぶ。
びくっ…
その途端、人々が学生さん達を振り返って見る。ふたりは堂々としている。すごい。あんなにたくさんの視線を一気に浴びて平気なんだ。すごい! ああ、いつか、あんなふうになりたい。
さて、私は声が小さい。大講義室でも声の大きい人ならマイクロフォンなしでやれる。しかし私は昔は声すら出なかった人だ。やっと声を出してプレゼンできるようになり大喜びしている程度の奴である。
こんなとき、どうするか。
大きな声を出すよう努めつつやってみる。やれないと思っても実はやれるようになっているかもしれないじゃないか。だから、やってみる。
それで、どうもダメな感じなら、そこが、
そのときの<変えられるもの>と<変えられないもの>の線が引かれている地点。
変えることのできるものと変えることのできないものを識別できた!
分かったのなら、事は簡単だ。マイクロフォンを持ってきてもらうよう求めたり、学生さん達に前の席に移動するようにお願いしてもいいだろう。
「私は声が出づらい障害があり、大きな声が出せないので、どうか近くに座っていただけますか」
言うべきことはそれだけだ。
きっとすぐに前に移動してくれる。きっと理解してサポートしてくれる。
そうやって、皆で協力し合い、成し遂げていく。大抵の仕事はそのようにして成し遂げられるのだろう。
何がやれて、何がやれないのか。それはそのときにならなければ分からない。そして、そのときにやってみれば分かる。
治るのか。この問いがおかしい理由は今では明らかだ。
回復への道は、治る、治らないでは語り得ない。なぜなら、回復とはスキルのことを指すからだ。
自分がその時点でやれることとやれないことを見極め、やれない部分は周囲に協力してもらう。そうすることでやるべきことをやり遂げる。それができるようになることを回復というのだ。
最も大切なのは、皆さんを信じること。お願いする勇気を持つこと。
私は自分のために『ニーバーの祈り』に次の節を加えることにした:
Grant me the wisdom to know the difference between things I can and cannot change at the time,and the courage to trust people and ask for their support.
私がその都度変えられるものと変えられないものを識別する知恵を
そして人々を信じサポートを請う勇気をお授けください