二段階のトラウマ:緘黙時代に形成された思考

認知行動療法のためにセラピストの扉を叩いてから一年になる。

セラピーは去年の前半だけ(7回)で卒業したのでもう受けていない。

認知行動療法は私の思考に潜む歪みやパターンを明るみに出していった。

そもそもなぜそんなに病むほどに歪んでしまったのか。

それについては、なかなかわからなかった。

認知行動療法を卒業してからも、自分でずっと考えてきた。

なぜ。

こんなに歪んでいたのに、なぜ自分で気付かなかったのか。

私の歪みは、自分にだけ非現実的な課題を課してしまうことだった。

完璧であるのは当然で、さらにそれ以上を目指す。それができなかった場合(非現実的な課題なのだからできなくて当然なのだが)、とことん自分を責めまくった。

小さな失敗すら許されなかった。

プレゼンで緊張して震えたら、もう人間失格。生きる資格なし。

そんな思考を続けていくうちに、私の症状は悪化し続け、

  1. 強い予期不安に襲われ(発表が決まるやその場で震え始め、日常生活に支障をきたす)
  2. 回避して(予期不安に耐えられなくなると、発表を取り消して逃げる)
  3. ひどい罪悪感に襲われ(逃げたから)
  4. 予期不安に耐えて発表に挑むと、発表の場でパニック発作を起こすまでに至り
  5. しまいにはそれら症状の重篤さから重度の社会不安障害と診断された。

そしてクリニカルサイコロジストのジャネットさんに「どうして自分にだけ意地悪言うの?」と言われるまで、自分が自動的に自分を否定し責め立てていることにすら知らなかったのだった。

なぜそんな自動思考が生じるようになったのか。

それを知るのは大切なことのように思えた。根本的なことのように思えた。だからずっと考えていた。

二か月ほど前、ある記憶に突き当たった。それは小学校一年生のときのある日のことだった。

もしかしてあのときの思考が原因だろうか。私はずっと二ヶ月間考えてきた。まさかあんな昔の幼少時のことが原因ではなかろう。最初はそんな気もした。けれども考えれば考えるほど、そのことは原因としての現実味を帯びていき、それ以外の過去には思い当たるものがないのだった。

私は場面緘黙児だったので、学校に行くと声が出なかった。

どうしても出なかった。

頑張っても出なかった。

声を出したいと気持ちが高まれば高まるほど、声はかたくなに出なくなるのだった。

小学校一年生のある日、私はどうしたって学校で声が出せないのだと悟った。

そして同時に思った。ならば、ほかのことは完璧にできるように頑張ろう。

勉強もスポーツも頑張った。ほかの子の何倍も頑張った。

そして少しでも失敗すると自分を責めた。

100点を取るのは当然だと思っていた。何かでミスをして99点だったりしたら、大失敗だと思った。

ところが、隣の席のA君が30点しか取れなくても、それは低い点だとも失敗だとも思えなかった。

だって、A君はしゃべれるから。30点でもしゃべれるのなら、なんら悪いことはない。

これってどういうことだろう。この二ヶ月間ずっと考えていた。

学校で声が出せない自分は、本当は生きていてはいけない。

欠陥人間は生きていてはいけない。

私が生きているというのはものすごく悪いことだ。

生きさせてもらうには、普通の何倍も努力して役に立たなければならない。

だから私だけは失敗が許されない。

そんな思考がそのときに出来上がっていた。私は声が出ないことを本当に申し訳なく思っていた。

この思考は、声が出るようになってからも変わることも改善されることも問われることもなく、当たり前のことのようにずっと長く続いてきた。

だから、生きている限り、常に人の役に立つように人一倍努力しなければならないと自動的に思ってしまうし、

発表で少しでも震えれば人間失格だと自動的に思ってしまっていたし、

学校行事などでも普通以上に貢献しなければならない、

とほぼ自動的に思っていた。そして、それがおかしいことだと疑うことすらなかった。治療を受け始めるまでは。

この自己否定的思考は意識下に流れていたのだろう。

だから、初回のセッションで、ジャネットさんに「自分のことをどう思いますか」と聞かれた時、自分についてはHappyであるとしか答えられなかったのだろう。

ジャネットさんはそのときふと考え込んだ。でも何も言わなかった。社会不安障害になるのなら、なんらかの自己否定が働いているはずだと思ったのかもしれない。なんらかの過去のトラウマがある可能性を思ったかもしれない。

これは私の場合、引き出すのは非常に困難だった。なにしろ、本人が自覚していないのだから。

しかも私の自己否定の仕方は、側面的なものだった。全般的に私の人生は悪いことばかりではなかったし、良いことがたくさんあったし、たくさんの人の厚意に恵まれていた。だから、文句を言う筋合いなどなく、また同時に文句を言ってはいけないと思っていた。それは、もしかしたら、大変タチが悪いかもしれない。

高校生になって、声が出るようになっていた。それなのに社会不安障害を発病してしまった。

そこの関連を私は考えたことがなかった。

場面緘黙症が引き起こした自己否定思考とトラウマ。場面緘黙は消えた。けれども自己否定・自己批判思考とトラウマは残った。それが社会不安障害を維持させる思考のベースとなっていた。

なんでこんなメンタルマーチになってるの?

私はずっと思っていた。異なるメンタル疾患が次々に出てくるなんて、私の人生はどうなっているのだ?

数学の証明で指される。答えは分かっている。黒板に向かう。書こうとすると震えて書けない。どんどん震えていって恐ろしくなってもうどうにもならなくなっていく。

英語の教科書の音読がまわってきた。読み方は分かっている。それなのに声が震える。どんどん震えていって恐怖だけが増していき頭の中は真っ白になる。

そんなどうしようもない社会不安障害の症状のずっとずっと奥には何があったろう。

完璧を越えなければならない。そうしないと私は生きていてはいけない。

今、認知行動療法を修了して、その後自分の思考と向き合ってきて、そこにあった関連が見えるようになってきた。

これは不運な偶発なんかじゃない。必然だったんだ。

子供時代からのトラウマがあって、自己否定思考が根付いたまま、高校生になり、社会的自我が芽生えてくると同時期に、それは起こった。

自己を否定し、完璧を越えなければ生きていることすら許されないという思考が根付いたまま、社会的パフォーマンスを行うようになる。そこで、心は発作を起こす。

当たり前だ。これは必然だった。社会不安障害になるのは時間の問題だった。

少しからくりが分かってきたような気がするので図にしてみる。

image

最初のトラウマ(トラウマ1)が決定的な自己否定に導いた。

自己否定が強いために、必然的にSADを発症。SAD発作で経験した恐怖の記憶が新たなトラウマ(トラウマ2)を形成。

不安を経験した社会的場面に再度身を置く(または身を置くことを想像する)とトラウマ2がよみがえり、再度不安発作を起こしてしまう。不安のスパイラルに陥り、SADは悪化する。

そしてクエスチョンマーク(?)で示した部分は、トラウマ1が導き得るその他のメンタル疾患。

これまで社会不安障害と向かい合ってきて、私はトラウマ2までは溶かすことができたと思う。

そこから、自分が自己否定をする傾向があることが分かってきた。それならトラウマ1と向かい合う段階まで来たということだろう。

このトラウマ1と向かい合う。

イヤだ。

これと向かい合うのは嫌だ。なんだって今更そんなものに向かい合わなきゃいけないんだ。ずっと昔に解決したこととして葬ったことだったのに。終わったことには振り向かず未来に向かって進んできたはずなのに。

幼少期のトラウマのことなんて大人が大真面目に取り組むことではない。そんな過去の終わったことにとらわれているのは一般的に見て滑稽なことですらある。

そのまま放っておいてはいけないだろうか。完全に忘れてしまうように努めたほうがいいのではないか。こんなものと向かい合って、潰される危険を冒すよりは。そんなふうにも思う。

けれども、それは確かに現在の私のメンタル疾患を引き起こしていた。だから、過去ではない。今、現在、起こっていることだ。

過去のものだと決めつけて、閉じ込めて、地中深く埋めて、サヨナラサヨナラサヨナラと立ち去り、二度と見ないようにして、それを大人のやり方などと称して平気な顔をしていたって、過去は生霊のように出てきて、たくさんの問題を現在に引き起こし、未来にも引き起こすだろう。

過去と向き合うことができない限り、これまでの社会不安障害の治療で得てきたものもぐらつきかねない。現在進行形のものを過去形で表現したところで、なにひとつ解決しない。放っておいたら、またメンタルマーチだ。

たぶん、私の社会不安障害治療の長い歩みは、大きなターニングポイントを迎えている。このターニングポイントを超えていくことができるだろうか。本当のところ、私にはその自信はない。けど、やってみたい。

幼少時から中学二年生になるまでの10年間。

学校に行くと声が出ない。

夜ベッドに入ってから、天井を見る。天井には淡いグレーの唐草模様に橙の花が散りばめられたようなパターンが広がっている。小さな女の子が楽しく寛げる空間を意図したのなら皮肉なものだ。この天井の模様を私は今でも鮮やかに覚えている。匂いがしてくるくらいだ。

目が暗闇に慣れてくると、天井の模様が見えてくる。

あの天井が、天変地異か何かが起きて、崩れ落ちてきて一気に私を殺してくれればいいのに。毎晩、願った。しかし、どんなに強く願っても、天井は落ちてこない。

絶望して、思う。このままでは、朝が来て、また学校に行かなきゃいけない。また、声を失う。

声が出ないのに学校の教室にいるのは苦悩でしかない。先生に迷惑をかける。クラスメイトに迷惑をかける。親に迷惑をかける。

だから生きていてはいけない。

それなのに、このまま朝が来てしまう。

多くの先生は声を発さない子供に戸惑った。私が家ではおしゃべりができるということを知った先生は、「黙っていたって、かわいくなんかないんだよ。しゃべったほうがかわいいんだよ」と諭した。

作文を書いて提出すると、「きちんと書けている。言葉が分かっている。それなのにしゃべれないわけがない」

親はもっと嫌だったろう。子供の異常は親が何か虐待などのおかしなことしたせいだと周りは単純に思いがちだ。普通以上にきちんと子育てしていたのに、「なにが原因でこんなになってしまったんでしょうね」と家庭訪問の際に言われ続けた母親は、参ってしまったのか、私が癇癪などを起こせば、「学校でしゃべらないから家でストレスを発散してるのね」と責め立てる。

ここまでを整理してみる。

過去に経験したこと。そのときに子供だった私が感じたこと。それは偏った感じ方ではなかったか。そしてそれが現在の私の自己否定的自動思考とどう関係しているのか。

私のせいで大人たちは皆いらついていた。私が悪いのだ、そう思っていた。私は加害者で周りの大人は被害者だ。

今、大人になって、こうして書き出してみると、なんだか、大人たち、結構ひどいんじゃないか、と思う。

普通と違うからって、理解できないからって、子供が意図的にやっていることだと簡単に決めつけ責める。

じゃあ、大人たちは加害者だったのだろうか。当時、このような障害が存在するなんて知られていなかった。だから大人たちは知る由もなかったし、たぶん、黙っている子供を叱ることで解決しようとしたのなら、よかれと思ってやったことで悪意はなく、加害者ではない。でも被害者でもない。

子供の私が自分を加害者であるかのように感じていたのは、歪んだ思考だ。私は間違いなく被害者だった。加害者はいない。被害者は私だけ。

私が加害者で大人たちは被害者だった → 私だけが被害者だった

そして、声が出せようが出せなかろうが子供はみんなひとりひとり平等に価値がある。声が出ないからって、生きてはいけないなんてことも、他の子たちより努力して役に立たなきゃいけないなんてことはない。

そのままでいい。

そう言ってやることができるだろうか。あの暗闇で一気に死んでしまいたいと毎晩願い続けている子供と向き合って言ってやることができるだろうか。

声を失ってもいい。

がんばらなくていい。

生きていていい。

そのままでいい。

あの10年間に確立されてしまった思考回路が、大人になった私が知らぬ間に自動的に機能していた。今考えてみると、これだったに違いないと思えてくる。

今回この作業を進めていて、毒が体中を巡るような感覚を経験した。

パンドラの箱を開けるというのはこういうことを言うのかなあとも思う。

過去に近づくことに恐怖を覚える。この恐怖は社会不安障害で何度も経験した恐怖への恐怖とは違っていて、もっと根源的な恐怖。

古びた Haunted Mansion (お化け屋敷)に入っていくような恐怖。自分の意識下に幽霊のごとくそびえ建つ建物に足を踏み入れるのは怖い。

やはりあまり近づかないほうがよいのかもしれないとも思う。それでいて、これは大切なことなのだという確信がある。

たぶん、完全装備で入り込み、短時間の間に歪んだものを収集してしまえばいいのかもしれない。長居をしてはいけない。生霊にやられてしまう。しかもこの生霊を殺してはいけない。途端に現在の自分も死んでしまう。気持ち的には離れて、収集家にでもなった気持ちで、さっと目にとまったものを集め、現在に帰り、安全な所で見つめてみる。

体調の良い時に時々やってみようと思う。

それでもやられてしまいそうになったら、クリニカルサイコロジストに相談に行こうと思う。自分自身との闘いには違いないけれど、自分ひとりで抱え込むこともないのだから。

作成者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.