自然体でいい

学校行事といったものに対しては以前から軽度の不安があった。

100を不安度の満点としたら不安度10くらい。ちょっとした不安対象。

もちろんそれは震えるほどの不安でも回避するほどの行事でもなかったので、参加できる状況の場合はいつも参加していた。

先週、学校のオリエンテーションに参加した。そんなとき以前なら僅かに心の中にあった不安が生じていないことに気づいた。

考え方のパターンに気づくようになった。これは大きい。日常のいくつかの場面で感じていた微妙な不安も調整できるようになったのは、その不安が起こる思考パターンのからくりが判ってきたこと。

そのからくり:

  1. 学校の行事に参加するときは学校に多大な貢献をしなければならないと思う
  2. 一保護者として、発言したり、意見を述べたり、教育レベルを向上させるために尽くさなければならないと思う
  3. 保護者としても先生に積極的に話しかけるべきだ
  4. ほかの保護者にも積極的に話しかけるべきだ
  5. そんなふうにして全力を尽くして貢献すべきだ
  6. だらだらと座って何もしないでいてはいけない
  7. 不安発生

 

やだ、そんな保護者。こわすぎる。

もっと肩の力抜いていこうよ。

参加するだけでもいいんだよ。

何も言わなくってもいい。

誰にも話しかけなくってもいい。

そう。そこにいるだけでいい。

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そこには、ふたつ、認知の歪みがあったと思う。

ひとつは自分が何もしないでそこにいてもいいと認識できなかったこと。なにか貢献しなければ存在してはいけないと思っていたこと。

それって、ずいぶん尊厳のない考え方ではないですか。

自己評価が低いようにも見受けられる。

なんでそのままの自分でいてはいけないの?

なんで私は努力しなきゃいけないの?

そのままの自分は悪いの?

自然体で、そのままの自分で、そこにいれば、それでいいのに。

ふたつめにその場で求められていることを理解していなかったこと。過大なことを求められているかのごとくだったこと。

誰も保護者に大きな期待なんて抱いていない。

独自で画期的な発言なんて求められていない。

参加してくれれば、それでいいのだ。

ごく自然に楽しく会話してくれればいい。

こんなこと、今になって考えてみると、本当に当たり前のことだ。

本当の、自然体の自分と、自分が考える、こうあるべきだと思う自分の姿。

ふたつの姿が乖離していた。だから無理が生じて不安が起こる。

ところで妙に頑張ってしまうのは幼少のときからの性質でした。妙に高い実現不可能な理想を掲げてひたすら頑張る。それが悪い癖であることにようやく気付いた。少しずつできることをやっていけば、それが一番の貢献にもなるのに。

そういうことがやっとわかってきたので、今回は自然体で参加した。

参加して、ただ、そこにいればいい。楽しめばいい。自分からは誰にも話しかけないもん。

その結果、不安がない。

そんなスタンスの参加の仕方をしても、おしゃべりはできた。

ある先生が話しかけてきた。

「今日はいい天気だから、いいですね。昨日は寒かったですよねえ。いや~、暑くなったと思ったら、次の日は寒くって、冬服をしまっては出しての繰り返しですよ」

以前の私なら、こんなお天気トピックにすら真剣に考えて、面白い有意義な会話にもっていこうと努力してしまっていました。

こわいよねえ。ほんと、おこがましいんだよ。貢献しようなんて。

お天気のお話してればいいのよ。

「そうですよねえ。うちもですよ」

と相槌だけ。楽しく会話ができた。それ以上も、それ以下もないのだから。

作成者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.