幼少時より社会的場面で不安があり、言葉を発することがなかったので、「大人しい」、「恥ずかしがり屋」、「引っ込み思案」などと大人には言われてきた。
が、それは社会的場面に限られ、家で家族といるときや幼馴染といるときは、盛んにおしゃべりして、注目を浴びながらたくさん意見を言っていた。
そんなふうだったので、子供の頃から自分で思っていた。
それでいてやけに強気なところがある。平均的な人より遥かに強気な部分もある。
例えば、五人くらいでミーティングしている。どういうわけかAはBであるという流れが生じる。けどみんなAはCであると思っているのが分かる。なのに、みんなそれを言わない。標準的な対人感覚だと言いづらいのだろうか。
で、私が言う。「AはCでは?」そしてAがCである理由を淡々と説明する。それでミーティングの空気にやっとAはCであるという流れが確立して、めでたし、めでたし。
その晩、電話がかかってくる。「さっき、言ってくれてありがと。私も同じこと思ってたんだけど言えなかったの」「言えばいいのに」「だって言いにくいじゃん」
「...?」
そういうことは日常茶飯事と言っていいくらいに多くある。
緘黙がよくなってからは、言わなければいけないことはすべて言えた。自分が壇上に立って発表するとなると社会不安障害の症状が出るが、数人のミーティング的なものなら、緊張すらなく、思うことを、言うことができた。
大学時代、サークルの仲間で食事をしていたとき、就職活動中の男の先輩が言った。
「女だったら、よかったなって思う。女だったら、就職でがんばらなくっても、結婚して、家庭に入ってしまえばいいんだしって」
ぴんっと場の空気が張った。
私の隣にいた女子学生は顔をこわばらせていた。
向かいの席にいた男子学生は窓の外を眺めるふりをしていた。
誰も何も言わないようだった。
「それは聞き捨てならないなー」誰も発言しないので、私が言ってみた。
「私もそう思ってた!」隣にいた女子学生が言ってくれた。
なんだ それなら 先に言ってよ~
そんなことが日常茶飯事。
ということは私の社交的感覚がやはり標準的な針の向きと多少なりともずれているということだろう。
大人になってからは、言いたいけど言うべきでない状況を除いては、意見を言いたいのに、明らかに言うべきなのに言えなかったということはない。
それは相手が世間で偉いとされている人に対しても同じだった。
研究者の間でも、偉い学者の意見をそのまま受け入れてしまう傾向がある。
それが標準的な大多数の針の方向なのかもしれない。けど、大多数の方向が間違っていることもある。
みんなで同じ方向に向かう。ときにそれが力を生むこともある。でも、それだけじゃ、発展しない。
だから、ずれている奴が、指摘する。ずれている奴も社会には少数なりとも必要で、なんらかの役割を担っている。そんな気がする。
そういうわけで、ずっと思っていた。社会不安障害患者はほんとにシャイなの?
Andrews et al. (2002) の社会不安障害治療マニュアル によると、社会不安障害患者がシャイであるかどうか、それはシャイという単語の定義によって答えは変わってくる、と言う。
その通りだ。
シャイ=社会不安障害の症状
と定義したら社会不安障害患者はみんなシャイということになる。
でも、
シャイ=後ろ向きで好奇心に欠け、チャレンジすることを嫌う
と定義したら、多くの社会不安障害患者には当てはまらないだろう。
だから社会不安障害というのは、とても不思議な人種かもしれない。
ある部分では強気、ほかの部分では弱気。
そんなとき、下記の社会不安障害に関する記事を見た。
これを読んで、そうそう、そうなのよ~、とすごく共感した。
たぶん、社会不安障害の人は普通の人にはなれないかもしれない。
けど、きっと普通の人にできないことが達成できるポテンシャルを秘めた人たちがたくさんいると思う。