成功体験を分析する

過去のうまくいかなかった社会的場面を認知行動療法的に分析していくことは大切だが、過去の成功体験、うまくいった社会的場面を分析して、なぜうまくいったのかを認識した上で、成功体験としてきちんと意識に植え付けることも大切だと思う。

だから、うまくいかなかった社会的場面についてから始めるより、成功体験について先にじっくりと書いていったほうがよかったのかもしれない。実際には成功体験、失敗体験もふくめて、過去の様々な体験、記憶について同時進行で分析をしていたのだけれど、最近はブログを書く時間がとれず、更新が滞り、時差が生じている。

成功体験。

忘却に押しやってしまいがちだが、じっくり過去を振り返り考えてみると実はたくさんある。

うまくいかなかった場面と成功した場面について記憶を辿り、比べてみると驚く。数としては成功体験のほうが圧倒的に多いのだ。治療を受け始める以前ですら、社会的場面の9割以上を難なくこなしてきた。

ほとんどは、こなしてきた、という程度のものだが、いくつかにおいては、聞く人の心をしっかりつかんだ経験もある。忘却の彼方から、その状況を再現してみようと思う。2件だけやってみる。1件目は去年の学会前夜パーティで院生さんたちとお話ししたときのこと。2件目は場面緘黙症であったにもかかわらず学校で喋れた経験のこと。

アメリカの院生さんたちと喋る

直近では、去年の学会前夜パーティーのテーブルでアメリカの大学院生たちと喋っていたとき。

はじめは、苦手な社会的場面なもので、仕方なしに喋っていた。そう、間が空かないように、みたいな感じで。けど、アメリカの学生さんたちと喋っていて、間が空くことはまずない。まったく、あの人達はよく喋る。

どんな内容の発表をするのですか、と聞かれたので、適当に研究内容について語り始めた。

そしたら、なんだか、話しているうちにノッテきてしまい、あれこれと熱く語ってしまった。主流の手法に関する不備点やら、それがどうすれば解決され得るかとか、そこからどういった可能性が拓けてくるのか、次世代の研究はどういった方向に向かうのかとか。いちどノッテくると、終わらない。

学生さんたちは、あるところから、目を輝かせ始め、「それは面白そうだ、あなたの発表を聞きに行きます」 そう言ってくれた。そして、本当に皆さんいらしてくれた。

これはどうやら成功体験だけれど、なんだったんだろうか、と思う。なぜ成功したのか。心を掴もうと、うまく喋ろうと、がんばったわけでは全くないのに。

ふたつあると思う。

ひとつは、社会的場面で喋っている自分という存在に意識が向かっていなかったこと。

無理に喋っているのではなく、ひとりでに言葉が湧きあがってくるような状態。話している内容に対して意識は100%集中し、話している自分なんてものにはひとかけらの意識も残されない。

誰だってこういうことはあると思う。好きなこと、興味のあることについて話していると、自然と饒舌になる。さらに聞いている相手が同じことに興味がある場合、盛り上がる。オタク同士でマニアックな話題で盛り上がってる。そういう状況はそこら中にある。

もうひとつは、内容が未来志向であったこと。

これまで、のことではなく、これから、のことを話した。これから、どう変わっていくのか。これからの私たちに何ができるのか。

上記のシネックさんのリーダーが行動を促すというお話を聞いて、ここで語られていることはコミュニケーションの真髄に関わることではないかと思った。

インスピレーションを与えること。皆が追うべき未来について、夢について、達成すべき対象について、なぜそこに向かうべきなのかという理由を明確に示すこと。

確かに、学生さんたちが目を輝かせ始めたのは、私が未来に向けて語り始めた時だった。これから、私たちに何ができるか、どれだけ豊かな可能性に満ちているのか。

プレゼンもそういった志向性を織り込むべきなのだろう。

そうすれば、聞いている人たちの心を掴むことができて、発表内容をよく理解してもらうことができる。さらにそこで掲げた目標が達成されるために伴に歩んでくれるかもしれない。

以前の記事で、聞く人にインスピレーションを与えることが大切なのではないかと書いた。ひとりよがりにただ結論に持っていきプレゼンを自己完結させるというのではなく、そこで語るひとつひとつの問題に聞く人が入り込む余地を与え、聞く人と伴に考えていくこと。

さらに、「これから」を示す。その方向に向かう根拠を示す。そうだ。自分の既にやり終えた研究の根拠や結論を示すこと以上に大切なのは、そこを起点にして、未来に向かう根拠を与えることだ。そうしなければ、研究の意義は減ってしまう。あるひとつの研究は、皆で今後さらなる未来に向かって邁進していくステップとなる。そう説得できるようになることだ。

そして、たぶん、その夢やら未来やらが現実に達成されるのかどうかというのは、あまり重要にはならない。

達成しようと邁進することで行われた過程が大切なのだから。

その過程において、まったく予想だにしなかった思わぬ発見があるはずで、それが大切なのだ。

物理だって、その目標は長いこと、人の運命を正確に知りたいという星占いの枠組みで行われてきた。ケプラーだって占星術研究所の研究者だった。

化学なんて、金が作れたらイイね、金持ちになれるじゃん、という俗っぽい夢へ邁進する過程で多くのことが発見された。

だから、まあ、目標はヘンテコでも、俗っぽくてもよくて、必要なのは、多くの人々をぜひ解明してみたい!という気持ちにさせてしまうことであり、それができれば、マンパワーだけでなく研究資金も集まってしまったりする。

そして、図らずも多くのことが解明されてしまい、めでたし、めでたし。

したがって、学会のプレゼンで貢献するとは、聞く人の心を奪い、駆り立ててしまうことだ。自分のやった研究については、すでに過去のこと。それが示唆すること、これからのこと、未来のことに重点を置く。

貢献しなければ!なんてあんなに強く思っていたくせに、不安発作を起こしていた以前の私は、やはり何ひとつ分かっていなかったのだろう。

心を奪う。なんだか楽しそうだ。はやく次の学会発表をやりたくなってきた。

 

By: MAURO CATEB

 

場面緘黙症なのに喋れた

さて、次の成功体験。

忘却の彼方、埃に埋もれた記憶を出していく。

なんと場面緘黙時代、いちどだけ喋れたことがあった。なぜ喋れたのだろう。

そのとき私は6年生だった。

その日は、先生の機嫌が悪く、5時間目のはじめに、突然怒り出した。意味は不明だった。昼休みにみんなうるさかった。そんなことだった。

昼休み中、先生は言った。5時間目に国語のテストをやると。だから、私はテスト勉強を始めた。他の何人かの子供たちもそうした。

けれども、いざ5時間目になると、先生はテストをするなんて嘘だったと言う。みんながうるさいから、テストすると言えば静かになるだろうと思って言ったのだと。

その上、5時間目も6時間目も怒ったままで、授業をせず、6時間目が終わっても怒っていて、みんながあんまりひどいので、帰さないなどと言う。

困ったものだ。理不尽にもほどがある。横暴にもほどがある。そう言ってやりたい。6年生の私は思った。

そう思っていたときに、突然先生が私に話しかけた。「学級委員としてこのことをどう思う。自分だけテスト勉強して良い点を取ればいいのか!」 私は学級委員だった。ちなみに私は学級委員長に立候補などしていない。誰も立候補しなかったので投票となり、そうしたら私になっていたのだ。なんてこった。

そこには、不安もなければ、緊張もない。迷いもなければ、タイミングをはかる必要もない。言うことを考える必要もなければ、言う内容について違っているかもしれないと疑いを挟むこともなかった。

待ってましたとばかりに、私は喋りだした。声は震えもしない。まっすぐ、淡々と、1分ほど、言いたいことを言った。

確かに休み時間はクラスのみんなが騒ぎ過ぎていたかもしれないし、そこは私が気がつかず、学級委員として責任を持って注意することができなかった。(どうせ声出ないから注意できないのにそう言った)しかし私と複数の子供たちが勉強を始めたのは、テストがあると言われたからで、テスト勉強するのは小学生の本分でもあるので、それは悪いことではない。今回のことはみんなすでに反省していると思うし、これからは私も学級委員として気をつけるので、みんなを下校させてください。

そんなことを一気に言った。そうしたら、えっ、あの子が喋ったという感じの一瞬の驚きの沈黙が教室に広がり、先生も驚いたように動きを止め、ようやくこう言った。

「そうだったね。ごめん。本当にその通りだ。なんだか、先生、今日は変だったね。本当にごめん」

そんなことを言ってくれたのは、初めて学校で声を発した子供に対して、なんとかこれを機会に声を出し続けてほしいという願いからだったのだろう。その後クラスメイト達がありがとうなどと言ってくれたが、もう声が出なくなってしまっていたので、どういたしましてとも、なんでもないよとも何とも言えなかった。

なぜ声が出たのか。

そのときは私にもよく分からなかった。今思うと、これはたぶん、信念があったからだ。言いたいという強い気持ちがあった。そして、その気持ちがあまりに強かったので、話している自分というものに対しては意識が向かなかった。

一種のトランス状態のようなものだったのかもしれない。

どうしても伝えたい、と思うとき、それが社会的場面であるという意識すら通り過ぎてしまう。

それは意図的に作り出した意識の状態ではなく、どこかから湧き上がって出てきたもので、私自身にはそのトランス状態のようなものを意図的に出現させることができない。

できたら、おもしろいだろうな。

このふたつの成功体験に共通してるのはなんだろう。

我を忘れて語っていること。

語っている自己というものに意識が向いていないこと。伝えたい内容に完全に集中していること。

たぶん、そんな状態が偶発的にではなく意図的に作れるようになれば、私の不安障害は問題のない状態になったといえるのだろう。

 

投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.