カズオ・イシグロ『日の名残り』における信頼できない語り手の秘める社会不安障害的なもの

障害名を得る、精神疾患の診断を得るのは、大切な一歩だと思う。自分の抱え続けてきた苦悩は病気だったのだと知ることで、問題を外在化できる。解決・回復へ向かうために役立つ。幼少時から自分だけが他人とは異なっていたあの感じが一気に説明できる。

他方、診断名はどうしても異常のレッテルとなってしまう。いや、正常と異常はゆるやかに繋がっているんだよと言われても、診断名というやつは強力で、否応なく正常と異常を分断する。

私自身、正常と異常は分断されていないと知ってはいる。精神疾患の診断を受けたことはスティグマを背負うのとイコールではないとも知っている。それにもかかわらず、気がつくと社会不安障害(SAD)の人々とそうではない人々の在り様を分断するかのような思考が生じている。

「フツーの人にはSADの苦悩など分からない!」「フツーの人の不安と社会不安障害の不安は異なる!」とか言ってたりする。

そうだね、ある面では異なる。けど、完全に異なるって言えるかな。SADの私とSADではない人々というのは宇宙人と地球人くらい離れた存在なのかい?

自問してみると、瞬間的にYes! と叫びたくなるものの、正直ちょっと自信がない。診断名を掲げて、これが私とお前が異なる理由だ!と、根本的な違いを主張したい気持ちが生じるのだった。診断名に頼れば全ての理由が得られるかのごとく。うん。診断名って強力だ。そうだ。私がたびたび理不尽になるのは診断名のせいだ、と責任転嫁しておこう。

自分が診断名に呑み込まれがちであることに気づくのは難しい。私はカズオ・イシグロの作品を読むとき、そのことに自然と気づく。正常と異常はふたつの異なる世界ではなく、人間の在り方として緩やかに繋がるひとつの世界なのだという認識に戻される。

カズオ・イシグロの代表作のひとつ『日の名残り』は英国貴族の屋敷に執事として長年勤めてきたスティーブンスの自省的語りで構成される。たぶん、多くの健康な読者はこの作品にSADっぽさを見出したりはしないのだろうと思う。もちろん、本文中にスティーブンスはSADなどというキャラクター設定がなされているわけではなく、私が長くSADを患っていたからこそ、スティーブンスの語りにSADっぽさを見出すのであろう。

新たにスティーブンスの主人(屋敷の主)となったアメリカ人のファラディ氏はアメリカ的ジョークを飛ばしスティーブンスを戸惑わせる。スティーブンスは有能な執事として文化の異なる主人のジョークに上手に対応し環境の変化にも適応せんと努める。

そんな日々を語るスティーブンスの言葉は、SADっぽさ満載なのだった。アメリカ的ジョークを期待されるファラディ氏との次回の会話場面を予期しては延々と思い悩んだり、過去の会話場面における自分の振る舞いを延々と回想しては反省したり…

(以下本文中引用は土屋政雄訳)

ファラディ様の[中略]お声に冗談口調を感じたときは、適当な作り笑いも浮かべられるようになりました。しかし、そのような場面で私に期待されていることはいったい何なのか、いまもって確信がもてません。ただ愉快そうに笑えばいいのか、私のほうからも冗談をお返しするべきなのか……。後者かもしれないとは、ここ数か月間、私が懸念しつづけてきたことですが、いまひとつ判断がつきかねます。

冗談を返すのを期待されているのではという不安。会話場面において自分がいかに振る舞うべきか考え込む。考えすぎて、しまいにはファラディ氏の心まで読もうとする。

ファラディ様が冗談には冗談で応じてもらいたいと望み、それをしない私を職務怠慢と考えておられるというのは、ありえないことではありません。それを私は懸念しているのですが、といって、はたして私にできることかどうか…….。

 

軽口には軽口で答えることが求められているのではないか。せっかくきっかけを作ってくださるのに、毎回それをとらえそこなっているのでは、ファラディ様は気を悪くなさらないだろうかと、私は本気で心配しておりました。

ファラディ氏は職務怠慢だとも気を悪くしたとも言っていない。スティーブンスのことを否定的に思っている様子もない。すべてスティーブンスの頭の中で起こっていることだ。なぜか心が読めると思っていて、しかも相手が自分のことを否定的に思っていると考える。そして勝手に考えて相手に確かめない。SADにおける典型的認知の歪み “mind reading”を彷彿とさせる。

私の受け答えにファラディ様が満足しておられないという思いもぬぐいきれず、このごろ少ししつこくなられたように感じるのはもしかしたらファラディ様なりの催促の方法なのか、と思ったりもいたします。

おっと、スティーブンス君、それは不安に基づく飛躍ではないかい? 十分な根拠もないのに飛躍して否定的に解釈する(Jumping into conclusions).

いまこそ冗談が期待されているのだと、瞬間瞬間にどうやったら判断できるのでしょう。うっかり冗談を口にし、つぎの瞬間、その場の雰囲気にまったくそぐわないとわかったときの悲惨さというものは、想像しただけで身の気がよだちます。

発言したら悲劇的なことが起こるように思う。予期不安。次に冗談が期待される場面においてウケない冗談を言ってしまったらどうしよう。大変なことが起こるに違いない。予期不安は終わらなく続く。

スティーブンスの語りに見られるSADっぽさは自動的に繰り広げられる悲劇的思考に留まらない。理想が高く、プロフェッショナリズムを極めようと日々努力を惜しまないところも、一部のSADの人には思い当たる特性ではないだろうか。スティーブンスの理想は有能な執事であり続けること。そのためには何でもやる。優雅な冗談を求められている気がすれば、職務を全うするためにレベルの高いジョークのセンスを身につけようと研究に努める。

私は新技術を自分のものとし、ファラディー様がどのようなジョークを飛ばされても、自信をもってそれに受け答えできるようになりたいものと思い、多少の努力はつづけておりました。
例えば、最近ではよくラジオを聞きます。

[中略]私がこのラジオ番組に注目し、それを研究してまいりましたのは、そこで語られる洒落というものが例外なく上品で、ファラディ様が私に期待しておられるジョークとは、こうしたものではなかろうかと思われるからです。

が、研究で得られた知見を実践しようとすると、不安が生じてうまくいかない。ぎこちない。肝心な場で、知見をスムーズに応用へと移行できない。発揮できない。

ですから、昨夜の冗談があまり受けなかったことにつきましては、私の落胆をご理解いただけましょう。最初は、話し方に明瞭さが欠けていたための失敗かとも思いましたが、バーから部屋に引き上げてから、はっと思い当たることがありました。ひょっとして、私は階下の人達を怒らせてしまったのではありますまいか。[中略] 眠ろうとしながら、私はこのことがどうにも気にかかって仕方がありませんでした。

不安場面後の自責。怒らせてしまったのではという根拠に欠けた想像がリアルに感じられ思考が止まらない。自分のパフォーマンスなど誰も気にしていないのに、自ら失敗とラベリングして気にする。悲劇的になる (catastrophyzing).

そして脳内反省会は延々と続くのだ。

しかし、この一件は、冗談や洒落が秘める危険を、よく例示しているのではありますまいか。洒落というものの性格上、思いついてから口にするまでの時間はごく限られておりますから、それを言うことで生じるかもしれないさまざまな影響を、事前に検討し評価することなど到底できません。必要な技術を身につけ、豊富な経験を積まないうちは、どういう不穏当な発言をしてしまうか知れたものではありません。もちろん、時間をかけ、練習を積みさえすれば、私はこの分野でも熟達の域に到達できるでしょう。そうなれない理由は何もありません。しかし、それまでの危険の大きさを考えるなら、少なくとも当面は、ファラディ様の面前でこの義務を遂行することは差し控えるのが賢明と思われます。私はもっと練習を積まなければなりません。

おや、なんだかんだもっともらしいこと言って、回避しちゃうんだね、スティーブンス君。

理屈を延々と述べた暁に行きつく場は、脳内で過剰に練ることで自らに向けて正当化した回避的先延ばしだったりする。

それにしても、この「冗談を言う場面」への過剰な分析っぷり。表層的には仕事のために努力してますトーク。その下に流れる回避思考。会話場面を過剰に分析することでかえって現実のイマココを見失ってしまうSADっぽさがすごい。

このようにスティーブンスの語りをごく一部抜粋しただけでも、読者は何かがおかしいと気づく。あちこちが「過剰」であり、常軌を逸している。過剰な反応、過剰な固執、非現実的な思考を続け、思考と分析が継続するほど、現実を正確に捉えるどころか、ますます現実から乖離していく。

さらに読み進めるとスティーブンスの過剰なこだわりは、偉大な執事であらんとする完璧主義にあるようだと読者は気づく。スティーブンスは偉大な執事としての品格を執拗に追い求め続けるのだ。

品格の有無を決定するものは、みずからの職業的あり方を貫き、それに耐える能力だと言えるのではありますまいか。並の執事は、ほんの少し徴発されただけで職業的あり方を投げ捨て、個人的なあり方に逃げ込みます。

スティーブンスは人生において自分の理想とする職業的あり方を貫いた。個人的なあり方に逃げ込まなかった。

こういったスティーブンスの職業的こだわりに、私は自分を重ねる。自分にとってのプロフェッショナリズムを規定しては思い込みを強め、過剰にこだわり、自らを縛りつけ、例外を許さなかった。決して震えてはいけない。堂々としていなければならない。常に完璧に任務をやり遂げなければならない。私の行うひとつひとつの任務が世界を塗り替える大発見でなければならない。それが非現実的な理想であることも、それが自分の病を悪化させていることも、自らの人生を狂わせていることも私自身は気づかなかった。本格的な治療を開始するまでは。

この作品で描かれるスティーブンスの執拗ともいえる職業意識は、セルバンテスの『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の主人公をも彷彿とさせる。自分は騎士であると信じ、理想的な騎士の姿を自ら達成しようと努力を続ける、あのユーモラスかつ深刻な狂気。

さて、自らの理想とする職業的あり方を貫いた結果、スティーブンスは個人的思いを犠牲にした人生を送り晩年を迎える。犠牲にした個人的思いの最たるものが、女中頭として屋敷で働いていたミス・ケントンのことだった。

晩年になって手紙をくれたミス・ケントンの真意についてスティーブンスはあれこれと思いを巡らすのだが、スティーブンスがミス・ケントンとの再会に過剰な期待を抱いていることに、語りを追ってきた読者は次第に気づく。

彼女からの以前の手紙においても夫との不仲を思わせる記述があったらしい。だが、手紙を寄こした彼女の真意が、スティーブンスに会い「夫と別れ、また屋敷で女中頭として働きたいのだが、可能だろうか」と打診するためだと、スティーブンスが思うに足るような記述はどこにもない。それにもかかわらず、物語のはじめからスティーブンスはミス・ケントンの復職について幾度も思いを巡らせる。

そこにあからさまな恋愛感情を吐露する表現はない。しかし、その上品で淡い感情描写と決して乱れない落ち着いたトーンの語りにスティーブンスの歪みが根を張っているのを感じ取るときだ。私の心身に言いようのない恐怖が走るのは。

ミス・ケントンと屋敷で働いた過去の記憶の回想、今後のミス・ケントンの復職への期待… 語りが記憶と期待を交差するたびに、読者はスティーブンスの思いを感じとる。ミス・ケントンは屋敷に戻りたいのかもしれないとの印象を受ける。が、次第に語りは歪みを帯びていき、ところどころに不整合が浮上。最後には破たんする。

じつは、今晩もまた、あの手紙を読み返しておりました。どうやら、私はところどころで、実際に書いてある以上の意味をそこの読み込んでいたようです。

[中略]

ミス・ケントンがいま何を望んでいるかなど、勝手にあれこれ忖度していてもはじまりますまい。

ミス・ケントンは手紙に復職したいなどと書いていなかった。

小説の終盤ではスティーブンスとミス・ケントンは再会を果たす。が、ミス・ケントンは復職を打診したりもしなければ、夫と別れたいとも言わなかった。ミス・ケントンの復職はスティーブンスの頭の中で生じた期待以上のものではなかったのだ。

現実と想像の境界が曖昧で、想像が現実のごとく語られる。そんなスティーブンスの語りは信頼できない。

このような語り手のことを「信頼できない語り手」 (unreliable narrator) という。物語をプレゼンする者が歪んでいるために、物語が歪む。語られる物語が物語で語られるべき現実を忠実に映すという前提が覆される。

読者は現実が語られていると信じて歪んだ語りを追い、惑わされ、ついに語りのズレに気づくとき、語り手の心に潜むズレを生じさせた何かを感じ取る。

ところで、スティーブンスの語るミス・ケントンへの思いには、もうひとつ妙なところがあるのに気づくだろうか。

通常の恋愛物語なら主人公は相手と一緒になりたい、結婚して家を買い一生そこでともに生きたい、などといった「普通の」夢想が繰り広げられ、ストーリー展開はそれを実現したりしなかったりする。スティーブンスの語る夢想には、そういったごく普通の個人的幸せの追求がない。

かわりにあるのは、徹底した「職業的あり方」。ミス・ケントンに特別な思いを抱きながらも、あくまでも執事と女中頭として屋敷で一緒に働くことを夢想し続ける。屋敷を離れて普通に一緒になるのは、スティーブンスにとって職業的あり方を投げ捨て、個人的なあり方に逃げ込む弱さと捉えられるのか。スティーブンスの「個人的な思い」は彼の貫こうとする偉大な執事のあり方の枠組みを出ない。あるいは出られない。

スティーブンスはそこのところを最後まで気づかないようなのだ。偉大なる執事あらんと執拗に求め続けるために自分の思いも人生も縛られ続けていることに。

そこに、私は『日の名残り』のこわさを感じる。

 

“信頼できない語り手” (unreliable narrator) はフィクション構築において多用される手法であり、珍しくはない。

映画やドラマにおいても、何者かの視点から映像が映し出され、物語が進行し、終わりの方で、実はこれは視点提供者の幻想でした、現実ではありませんでした、というオチの映画やドラマはありがちであり、誰でもそういう作品を観た記憶があるものだろう。

例えば、近年アメリカでTV放映され人気を得た『ミスター・ロボット』というドラマはSADを患う信頼できない語り手(主人公エリオット)の視点から展開される。

パーティーへ出かけたのに、会場のドアを開けるのを躊躇し結局参加せずに帰ってしまうシーンなどはSADっぽい。それでいてエリオットのSAD的なところはそういった表層的描写に留まる。ストーリーを展開する側がSADを意識して挿入したと思われるあれこれの表層的エピソード。

ところがだ。このエリオット、語り始めるとSADっぽくない。SADを語っているのに、SADっぽくないのだ。エリオットがセラピーセッションにおいてこうセラピストに語るシーンがある。

「私の社会不安障害は社会全体に対する恨みから生じている」

なんだって? このセリフの醸し出す違和感。

「人が嫌いだから社会不安障害になるんだね」

「社会不安障害って社会に対する不満からなるんでしょう」

みたいな、SADに対して無知な世間一般が言いそうなセリフではないか。

社会を恨んでいるSADの人もいるかもしれない。社会に対する恨みから自分はSADを発症したのだと思っているSADの人も存在するのかもしれない。けど、社会も人も嫌いなら、社会も人もどうでもよくなって不安など高まらないでしょう。

エリオットのセリフには、不安対象が好きだからこそ、不安場面が大切だからこそ、不安が高まり、病に陥るというSADの本質とも言えるべきところが欠けている。好きなのにできない。大切な場面であるのにできない。自分の力が発揮できない。そんなSAD的苦悩。

もしこのシーンでエリオットが「人が好きです。それなのに人と満足に交流できなくて寂しいです。人を大切に思うから人を傷つけたくない。人と完璧で美しい信頼関係を築きたい。けど僕は人が好きだからこそ人と接すると傷ついてしまって、つい回避してしまう。それで誤解されてしまうんだ。あいつは人が嫌いなんだって。むしろ人が嫌いなら不安なんて感じずに気楽に対人交流できるであろうに」などと吐露し泣き崩れたりしたら、私は、

いいぞ、エリオット君、その調子で本格的なSADっぽさ披露してくれ。大人気ドラマを通して世界中のSADに対する誤解を打開するんだ!

と大喜びとなるであろう。残念だ。

そういう点である。『日の名残り』のスティーブンスのほうが遥かにリアルなSAD感を醸し出しているのは。徹底した執事としての「職業的あり方」を過剰に大切に思うが故に陥るあの思考と行動の悪循環。徹底した職業意識が執着の色合いを深めていくときのあの不気味さ。

SADと大きく赤字で書かれた衣を纏う仮装者のようなエリオットと、一見何の変哲もない勤労者であるスティーブンス。この違いが「信頼できない語り」を両作品において異なるものにしている。

というのは、エリオットの信頼できない語りを構成するのはSADのみではない。彼はうつ、解離性同一性障害をも患い、さらに薬物依存という設定となっている。そういったあれこれの疾患による妄想がエリオットの語りが信頼できなくしているとされている。

エリオットが語る現実が何やらおかしい、信頼できない語り手ではと疑いを抱いていた視聴者は、シーズン1の終わりでエリオットの現実は幻想であり、エリオットが追い続けている Mr. Robot はエリオットが頭の中で死んだ父親の像を再現させているに過ぎないと明らかにされるあたりで確信する。

エリオットは精神疾患のせいで幻想を見ている。なるほど。別世界のお話なんだな。正常な世界とは別のところで構成されている異常な世界。

正しい認知の世界があって、それとは別に誤った認知の世界がある。

『ミスター・ロボット』の信頼できない語りが精神を病んだ者から生じる幻想世界であるのに対して『日の名残り』の信頼できない語りはそうではない。

カズオ・イシグロはそれまで精神障害者に語り手を設定することでなされがちであった信頼できない語り手から離れ、独自の「信頼できない語り手」手法を編み出したことで高い評価を得ている。「信頼できない語り手という手法にあなたが特別に興味を持つのはなぜでしょうか」と問われたとき、イシグロ氏はこう答えている。

「小説を書くようになった頃、“信頼できない語り手”を念頭に置いたことは全くなかったんだ。実際のところ、当時その用語は今ほど出回っていなかったし。私がやったのは語り手を本物らしく書くことで、つまり、ほとんどの人々が自分についての話をするときにこう語るだろうなと私が思うような語り方にした。というのは、誰だって自分の人生の重要な時期について語るとなれば、“信頼できなく”なる。それが人間の本性なのだから。人間っていうのは、自分に対してすら“信頼できなく”なりがちで、おそらく、自分に対しては特に“信頼できなく”なる。だから私は信頼できない語り手を文学技法としては捉えていない。…私は自分の作品の語り手を、普通の人がある特定の状況下において信頼できなくなる以上に信頼できなくはしたくないんだ」

When I started out, I never really thought specifically about ‘the unreliable narrator’. In fact, that term wasn’t thrown around back then nearly as much as it is now. I just wrote my narrators up in the way I felt was authentic – the way I felt most people would go about telling a story about themselves. That’s to say, any of us, when asked to give an account of ourselves over any important period of our lives, would tend to be ‘unreliable’. That’s just human nature. We tend to be ‘unreliable’ even to ourselves – maybe especially to ourselves. I didn’t think of it as a literary technique. … I wouldn’t want my narrators to be any more unreliable than the average person would be in a similar context.

Ishiguro (2015) at Guardian webchat

健常者は状況を客観的に正確に語り、精神障害者は主観的で歪んだ語りを展開する。そんなふうに健常者と精神障害者の世界は明確に分けられているという考えは、それこそ健常者の妄想なのかもしれない。そんな妄想、あるいは偏見から、従来の「信頼できない語り手」を精神障害者に設定するのが慣習的になり、また、世間で異様に残酷な事件が起こると同様の偏見から、「犯人は精神障害者であったにちがいない」と人々は盛んに「自分とは別世界のもの」カテゴリーに異様で受け入れがたい犯罪を入れ、自分とは関係のないものにしてしまうのかもしれない。

精神疾患なんてものは、普通に真面目に仕事をしていたりしている人達が、隣で楽しそうに生きている人達が、罹患していたりする。そういったものなのに。真面目に働くスティーブンスの語りが歪むように。

そもそも、SADの特徴である、好きであるからこそ固執し過剰に不安になり思考が歪むなんていう状態も、誰もが日常的に経験しているのではないか。

ほら、恋に落ちてしまって、相手のことについて語りだすと止まらない奴なんてどう見ても歪んじゃってる。「あの人はこう思っているにちがいない」と相手の心を読もうとしたり、相手の行動や言動を根拠なく飛躍して解釈したり、会う予定があれば何日も前からそのことばかり考えている様子は予期不安っぽいし、「私はあのときあの人にこう言えばよかったのに言えなくて」とか脳内反省会が延々と催されている様子とか。大丈夫かよ…とこちらは内心思うものの、おそらく本人は困ってはいないのだろう。オマエの認知は歪んでいる、正しくない、などと指摘せず、温かい目で見守っていればいいのだ。

そんなふうに、いかなる人間も物事を正確に捉えることも語ることもできず、人は常に主観に歪められ、その歪みは自分について語るとき、自分が関係するときに特に際立つ。

自分や好きなもの、大切なものに固執するのがSADに限った特徴ではなく広く人間に共有される本質なのなら、私の病は人間が人間たる所以の本性から生じていて、その本性が過剰になったり、暴走していて悪循環に私を閉じ込めた状態を示していて、それは私が他の人たちから切り離されたのでも、人間らしさを失った状態でもない。

自分が大切に思う相手や大切な場面にいる人たちの心を読もうとしたり、根拠なく飛躍して否定的に解釈したり、大切な場面を前に予期不安を起こしたり、悲劇的になったり、自責に陥ったり、脳内反省会が延々と続いて眠れなくなったり、大切な場面を回避してしまったり、自分の理想に固執して人生を縛られ出られなくなってしまったり。そういったあれこれの「SADっぽい」と私が見做す特徴は、SADに限定されるものではない。

それは同時に、狂気はごく普通の人々やごく当たり前とされている普段の生活の中に常に潜んでいるということを意味する。それなのに誰もがそこに狂気など存在しないかのような顔をして生活している。

日常は普通の常識的で健康な人々の歪んだ語りで満ちているのに、「私の考えは正しい」と主張する言説はあちこちで溢れ、正しい認知が自分の側にあり誤った認知は別のところにあると信じて疑わない。そして本人は困っていない。歪んでいるにもかかわらず、困らないという人間の在り方。歪んだ思考も行動も正当化して常識化する。それこそが人類の患う本質的な狂気と呼ぶべきものとも思えてくる。

信頼できない歪んだ語りは異常者のものでも、別世界のものでもない。

 

投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.