「科学者のように仮説を検証しましょう」という認知行動療法の謳い文句は違うと思う

私は治療を受け始めた頃、認知行動療法とは自分の感じ方を客観的に検証していき客観的な結論に導くものだと思っていた。認知行動療法のセルフヘルプ本などにもそういうことは書いてある。「科学者のように客観的に検証していきましょう」と自分の感じ方、思考パターン、行動パターン、現実の様相について検証してみるよう促し、認知行動療法の世界へと誘う。

しかし、認知行動療法が私の生活の一部となり10年近くが経過した今、認知行動療法をやればやるほど、それは違うのではと思うようになった。というのは、私が認知行動療法で効果を実感するに至るとき、きまって客観的な検証プロセスを経ていない。客観的な検証プロセスを経ているように見せかけて、バイアスのかかった結論にもっていっている。私が認知行動療法をやってうまくいくときは、客観的に物事がどうであったかにかかわらず、いつも意識的に特定の結論へと導いている。

すると何だこれは。科学的でも客観的でもないじゃん。そう思うようになってきた。

例えば。

不安場面に挑む。挑むのはそんなに怖くない。なぜかと言うと、結論はほぼ決まっているからだ。不安発作に見舞われようが、震えようが、いかなる結果が得られても、結論は変わらない。何が起こっても、私は絶望に陥ることなく、不安と回避の悪循環にはまることなく、次回も回避せずにやりたいことをやるのだという結論にもっていく。だから比較的安心して挑む。

発作に見舞われずスムーズに事が運べば…

ほらOKだろ。私が不安になり地球が割れるほどの悲劇に至るという仮説は棄却された。予想外の結果に驚いたな! 私はこの調子で次回も回避せずにやれる!

発作に震えながらも事を終えれば…

今日に限って体調が思わしくなかったようだが、まあ今日に限ってのことであり、普段はOKだろう。今日は不安を感じきり、高まった不安が低下していくのをしっかりと感じることができたので、次回は不安感が下がるだろう。大成功だ! 私が不安になり地球が割れるほどの悲劇に至るという仮説は棄却された。予想外の結果に驚いたな! 私はこの調子で次回も回避せずにやれる!

結論は変わらない。要に行動実験と称しながら、実験ではないのだ。結果がどうであれ、結論は初めから決まっているのだから。こんなのは科学的プロセスではない。

けど、以前は物事の悲劇的な面しか見ずに偏った結論に導いていたのだから、それまで目を向けることのなかった良い面を強調することで、ようやくバランスの取れた客観的判断を下せるということではないの?

そういう場合もあろう。だが、客観的であることが常に最も治療的かつセラピューティックとなり得る結論を導くのか。客観的かつ正確な観測が常に治療的であることにつながるのか。自分の認知や行動の観測にバイアスが伴わないほど、症状を軽減できるのか。そこに疑問を感じるのだ。

行動実験にスピーチをやってみて、見ている人達に明らかなほどボロボロに震え、何を言っているのかわからない。しまいには、もっときちんとできるようになってもらわないと困ると文句を言われる。

それでも、「かなり緊張して身体症状が出たとは思うが、傍目には気づかない程度だったのかもしれない。文句を言ってきた人は機嫌が悪かったのだろう。あの人の機嫌はあの人がとる必要があるわけで、私があの人の機嫌をとる責任はない。今回は不安を感じきったので、次回はもっと楽にできるはずだ…」と結論づける。そうすれば、次回以降も回避に至ることがなく、不安と回避の悪循環にはまることもない。仮に今の私が同様の行動実験を行い、同様に激しい症状に見舞われたとしたら、同様の結論を導くだろう。これでいい。いいのだが、これは科学的な検証とは言えない。

何をどう観測するのか前もって決めてない。客観的判断や解釈を導くための基準が欠如していて、行き当たりばったりに主観的な解釈を施す。ネガティブな結果が生じても、捏ね繰り回して無理やりポジティブな結論を導くための根拠に変えてしまう。こんなのは科学的プロセスではない。

これは科学的検証というより、捏造・改ざんに相当する一種の研究不正行為であるSPINに近いのではないか。

研究結果をチェリーピッキングして、自分に都合の良い、求める結果のみをハイライトする。結果に忠実な解釈を施すのではなく、結果を曲解し、印象操作する。

これはダメな研究者がダメな研究をやるプロセスだ。

ならどうして「科学者のように検証してみましょう」と広報するのだろうか。

だって、まともな科学者が「科学者のように検証してみましょう」という広報を真に受けて、行動実験を実施し、様々な症状に見舞われたとき、努めてバイアスがかからぬよう適切に検証してしまったら、認知行動療法としてうまくいかなくなる場合もあるだろう。

もうひとつ、「科学者のように検証してみましょう」と認知行動療法が誘う付随的な弊害として、「認知行動療法は科学者のように検証していくので、科学的素養のある人や高学歴の人に向いている」という誤解が生じる点がある。そして、認知行動療法を必要としている人々に、なにやら難し気で自分には向かないような印象を与えてしまう。

科学的・客観的に検証するのが苦手で、バイアスのかかった解釈を施しがちな人のほうが認知行動療法に向いている可能性すらあるかもしれない。それなのに、「科学者のように検証してみましょう」とは如何なることか。わからない。

むしろこう言ったらどうだろう。「不正をするダメな科学者になったつもりになって、都合の良い面を取り上げ、都合の良い解釈をしてみましょう」「客観的に検証してはいけませんよ。主観的に特定の結論に導くのです」「SPINをやってしまいましょう。なに、バレませんよ。認知行動療法なんですから」「認知行動療法をやるときに必要なマインドセットとか言われているのはね、所詮捏造マインドですから、不真面目になることですね」

程度のことを言って広報すれば、分かりやすいし、しかも親しみやすいのではないか。

私は「科学者のように検証してみましょう」などという広報が生じた経緯についてなど知らないが、もしかしたら、間違った認知と正しい認知があるとする昔の認知行動療法の捉え方がその前提としてあるのかもしれない。間違った認知があり、科学者のように検証してみることで、正しい認知を発見するという思想だったのだろうか。最近では、不適応な認知とか適応的認知とか、役に立たない考え方とか役に立つ考え方とか言い替えられているのは、目指すのは正しさや真理といったものではないからだろう。目指すのは、プラグマティックな性質のものであり、現実において本人が生きやすくなるような方向性であるということだろう。

そういうことなのだとしたら、「科学者のように検証しましょう」もやめて、「行動実験の結果は今後不安場面の悪循環に陥らずに自らを回復に導けるような、自分に都合よい解釈をしましょう」に言い替えてもらうほうが、誤解が生じず分かりやすいと思う。

 

作成者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.