居心地が悪くてもトイレに逃げずにそこに居続け会話に入る

私は雑談が苦手である。

特に苦手なのは見知らぬ人々の集まる場での雑談、また集団活動中の休み時間に繰り広げられる雑談。ふたつが合わさったら最悪である。見知らぬ人々が乱雑に席を立ち、乱雑に世間話を繰り広げるあのカオス。どうして耐えられるものだろうか。

と長年思っていた。幼稚園に入園したときから思っていた。今でも思っている。

けれども、おや、最近私は少し変われたのかな、と思うことがあり、それを記録しておこうと思う。

職場では随時あれこれのトレーニングが催される。それは学科単位でも学部単位でもなく大学単位で催される。私もたまにはスキルを磨こうかなと思い立つ。しかしそれは、大学内の遠く離れた「見知らぬ人」だらけのトレーニングに参加することを意味する。そして、あの私の極めて苦手とする乱雑空間が花開く。

また、トレーニングセッション中のディスカッションは苦手だ。得意科目のディスカッションなら得意である。が、自分の知らないことを行き先も知らないままディスカッションなんてできない。と言うかやりたくない。私はディスカッションの行き先が自分にとって明確でないと不安なのだ。

しかも休憩時間に繰り広げられる雑談。苦手だ。

そんなとき、かつての私は、トイレに避難したり、構内を散歩したりするのだった。そうすることで雑談を回避できるからだ。

が、それはもうできない。苦手な雑談を避けての行動は社会不安障害における回避であり、安全行動であり、それをやってしまうと私の不安を強め回避が繰り広げる悪循環を強化すると今では知っている。だから、もうできない。つらい。

仕方がないので、その場に居続ける。近くの席に座っている見知らぬ人ふたりが会話を繰り広げるのを聴いている。どうしようと思う。居心地が悪いと思う。今、世界一不幸なのは私だと思う。トイレに行くふりをして立ち上がりたい。で、そういう思考や行動は役に立たず、根拠などなく、思考と行動の癖からくるんだよなあと思う。と同時に、なんとかしなきゃなあと思う。そこで、このふたりの会話に入ってやろうと無謀なことを思いつく。雑談スキルが低いくせに。

ともかく、ふたりの話を聴いていることを隠さずに、いかにも興味深く聴いているかのような表情を作り、うなづいてみたりといった小さな反応を示しつつ、会話に入っていく隙を探す。私はとても真剣に探す。が、真剣になればなるほど、隙は見つからない。小さな隙間が見つかったかと思って手を伸ばすと、それは縮小し、消えていく。儚い。

そんな儚さの狭間で私が戸惑っていると、会話しているふたりは私に気づき、私のほうを向き、話を振ってくれる。おおっ、私が頑張って隙を見つけて割り込んでいかなくても、あちらから隙間を開けて、入れてくれるのか!

このようなことがこのところ幾度も続き、私はあることに気づいた。

私が他人に興味がないかの行動を取り、トイレに逃げれば、人々は私を放っておくし、私が他人に興味があるかの行動を取れば、人々は私が無理をしなくても仲間に入れるよう尽くしてくれる。

もうひとつ、気づいたことがある。

かつての私は、他人の繰り広げている会話に私が興味をもっていると思われることを、異様に嫌っていた。

なぜか。

一般的な言葉でひとことで言えば、それはプライドが高いからだ。

なぜそんなところにプライドを賭けるのか。

分からない。ともかく、おかしなことだ。わけが分からない。

とりあえず、私に合理性に欠けたおかしな癖があるという事実に気づいたので、他人の繰り広げている会話に私が興味をもっていると思われることを怖れたり、トイレに立ったり、全然聴きたくないかのように話に加わりたくないかのように振る舞うのは今後もやめよう、今後は私はあなたの話に興味があるのだアピールを全開にし熱心に人の話を聴き入り込もうではないかという決心に至った。めでたい。

それにしても、人々は優しい。

私がぎこちなくて会話に入れなくても、あちらから気づき、入れてくれる。しかも会話を振るのが上手である。

お気に入りのパブの話をしていた人達は、「あなたは(パブの名前)に行ったことある?」と自然な流れで私の方に話を振り、「行ったことないのだけど、メインストリートにあるあそこですよね、今度行ってみようかな」と無理なく私がこたえ、話に入れるようにしてくれる。

なるほど、地域のパブの話をするのも手だな。同じ大学で働いているなら同じ地域の人なのだから、したがって、地域のパブの話をすれば知らない人同士でも話ができるのだ。この人たちはなんて賢いのだろう。勉強になる。

このようにして、私は苦手分野(雑談術)を遅ればせながら学習しつつある。たぶん、幼い頃から見知らぬ人同士の雑談経験を通常レベルに積んできた標準的な人たちにとっては当たり前の雑談スキルなのかもしれないが、私にとってはそうではないので、このようにスキルを盗みながら少しずつ身につけていくしかない。標準レベルに追いつくことはないのだろうが、それでも最低限のスキルを身につけられればなんとかやっていけそうな気がする。

すごいな、と思うのは、私が話に入りたそうにしてさえいれば、人々はすぐに気づき、すぐに仲間に入れてくれるという現実であり、私は見知らぬ人に対してでも信頼を置いていい、それを現実として認識し、その新たな認識を徐々に強化させていけばいいのだということだった。

振り返ってみれば、社会不安障害が悪化していた頃は、人々が優しいという事実すらなかなか気づけなかった。恐怖を感じあまりにも居心地が悪いために、人々の優しさに気づく余裕すらなかった。有難く享受する余裕がなかった。もったいないことだ。

このような信頼を学習し積み重ねていけるのも、幸運なのだと思う。私が会話に入りたそうにしているのに気づいた人々が、わざと無視してその場を立ち去ってしまうようであっては、私の根拠のない「見知らぬ人不信」は根拠を得てしまうのだから。そういった排他的環境では回復への道が閉ざされてしまうのだ。

優しい人達の優しさをそのまま有難く受け入れ、癖でしかないプライドなどは捨てて人々に頼り、人々の雑談スキルを観察し、今後も焦らずゆっくりと学習していこうと思う。

 

作成者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.