思考と行動の循環の有無で判断する

私の過去は社会不安障害特有の様々な悪循環で満ちていた。今でも悪循環はある。以前は悪循環が流れは強力で、頑張ろうが努力しようが抜け出せないほどだったが、最近は流れの力は弱まり、適応的な循環に乗れることが多くなってきた。

電話編

治療前(先延ばし編)

やらなきゃいけないことを先延ばしにしてしまう。

これだけ聞くと、なんだ、それって誰にでもあるじゃん、と思うだろう。

が、社会不安障害の先延ばしは誰にでもあるような程度のものではない。

やらなきゃいけないのに先延ばし(回避)して、次の日も、また次の日も先延ばし(回避)する。

先延ばししているうちに、やるべき行動をやるハードルはどんどん上がっていく。「なんだって早く言ってくれなかったんですか!」という相手の反応を想像して、さらなる不安に打ちのめされる。

悪化すると、やるべきことを、結局やらない。結果として周囲に迷惑をかける。

ところが実は本人は無責任な人ではなく、やるべきだったという認識はあったりする。そのため多大なる自責に陥る。

健康な人なら反省して次回似たような状況に出くわしたら先延ばしにせず行動するかもしれない。

が、幾度も先延ばしの悪循環を経て社会不安障害を悪化させたら、似たような状況を察知した途端、自動的に先延ばしに走るようになる。

先延ばしにして、次回も、また次回も先延ばし。そう。終わりがない。

1.電話かけなきゃ

2.声が震えたりしたら嫌だな(自動思考)

3.明日でいいか(先延ばし決定)

4.(次の日)明日でいいか(先延ばし決定)

5.(次の週)今更電話かけても変だからもう電話かけない(回避)

6.「私は電話すらかけられないクズないのだ」と後悔と罪悪感に苛まれる。(信念の強化)

治療前(震える編)

さて、先延ばしにせずに電話をかけた。回避しなかった。それで常に解決かと言えば、そんなに単純なことではない。

社会不安障害の思考と行動の悪循環が強力に維持されているなら、適応行動を取っても回復への適応的循環に繋げられない。電話をかけ、そのとき声が震えるなどの身体症状に見舞われた場合、「ほら、私は電話すらかけられない」という信念が強化され、悪循環も強化されてしまう。

1.電話かけなきゃ

2.声が震えたりしたら嫌だな(自動思考)

3.けどやらなきゃ

4.電話したら声が震えてパニック

5.「私は電話すらかけられないクズないのだ」と後悔と罪悪感に苛まれる。(信念の強化)

治療前(巻き込み編)

1.電話かけなきゃ

2.声が震えたら嫌だな

3.誰かに代わりにかけてもらえばいいか(回避思考)

4.私の最大の理解者であるAさんに「声震えそうなんで代わりに電話かけて」(回避&巻き込み)

5.不安から解放された安心感に浸る(安堵感&負の強化)

6.私が電話をかけると悲劇的な結末となるしね(信念の強化)

残念なことに、代わりにやってくれる人の存在も悪循環を強化させる。

なぜ? 苦手なことを代わりにやってもらえて、安心できたのなら、それでいいのでは?

いや、よくない。安心感を得るのが、社会不安障害を患う人にとって常にゴールであると見做していると、病を悪化させ回復の機会を奪ってしまったりもする。

その安心感が「回避」に伴って得られる場合は、不安に見舞われつつも「適応行動」を実践するに伴い安心感を得て(「行動=安心」)悪循環を破り回復へと向かうのと異なり、

「回避=安心」

という条件づけができる。

「私が電話をかけると悲劇的な結果となるので、誰かに代わりにかけてもらえば、安心」

という思考と行動の悪循環が強化されていく。

ついでに、

「理解者のAさん=安心」

という条件づけができた同時に

「理解者Aさんの不在=不安」

という条件づけもできてしまう。

理解者Aさんがいなければ、不安で何もできない。

私には私の病を理解してくれるAさんがいるから安心? いや、Aさんは善意の人であるには違いないだろうけれど、理解はしていない。

「理解者」とされる者が社会不安障害を維持させている悪循環を「理解」していなければ、また本人が「理解」していなければ、「支援」および「理解」という名を冠した巻き込みが起こり、悪循環は強化、抜け出せなくなり、症状が悪化していく。

社会不安障害の悪循環を理解し、巻き込みが生じそうになったら、気づき、それでいて責めず、巻き込まれずにいられる人。回避せずに、無理のない挑戦ができるようそっと支えてくれる人こそが真の理解者なのだろう。

治療前(マイナス化思考編)

1.電話かけなきゃ

2.声が震えたりしたら嫌だな(自動思考)

3.けどやらなきゃ

4.電話したら緊張したもののなんとか要件を伝えられた

5.こんな簡単な要件であったのに緊張するとは大失敗ではないか(マイナス化思考)

6.「私は電話すらかけられないクズないのだ」と後悔と罪悪感に苛まれる。(信念の強化)

回避せずに自分が不安を感じる行動に果敢にも挑戦した。特に症状も出なかった。任務を達成した。

それなのに、悪循環が強化される。

自分のパフォーマンスのマイナス面にしか目を向けられない。

そんなふうに、行動と思考の悪循環が維持される限り、病は悪化していく。なんて恐ろしい病だろう。

こういう状態であると、回避しようが挑戦しようが、パフォーマンスレベルが高かろうが低かろうが、よくできようができまいが、回復への循環は廻らない。悪循環に縛られて、病は悪化していく。

治療後

逆に、循環の流れが回復へと向かっているなら、多少の症状が出ても、パフォーマンスレベルが高くなくても、思考と行動を適応的循環に乗せられる。

1.電話かけなきゃ

2.声が震えたりしたら嫌だな(自動思考)

3.明日でいいかな… いや、いけない、ここで先延ばしにしたら病が悪化する(悪循環に気づく)

4.やってみればできないこともないだろう(自動思考に対する反論)

5.電話をかけたら震えたが話せた(適応行動)

6.要件を伝えられたのだ。次回もやれるだろう。(適応的反応の学習)

よくできた、よくできなかった、症状が出た、症状が出なかった、震えた、震えなかった。それは回復への道を決定する主要基準ではないのだろう。

そのパフォーマンスが悪循環の形成要素となったか、ならなかったか。震えたことが悪循環の形成要素となったか、ならなかったか。

そこには成功も失敗もない。あえて言うなら、悪循環に呑み込まれたら失敗、新たなる適応的循環に乗せることができたら成功。適応的循環までいかなくても、悪循環に嵌らなければそれでいい。エクスポージャーを繰り返し、悪循環が緩んでいけば、症状も次第に消えていくだろう。

今思い起こしてみると最も大きな転換は、認知行動療法が進んでいったある地点で、「絶対に震えてはいけない」という認識が「震えてもいい」という認識に変化したときだった。

震えてもいい

震えてもいい。頭の中が真っ白になってもいい。不安発作で気を失ってもいい。

 

プレゼン編

治療前(回避編)

先ほど述べたように「安心感」というのは曲者だったりする。

「安心」が得られればそれでいいのかと言えば、常にそうではなく、「安心」をコンテクストの中で捉え全体の循環の中で見ると、その危うい機能が露になってくる場合がある。

1.アブストラクトを送った学会から受理通知が届く

2.また不安発作を起こすに違いない。嫌だ。(自動思考)

3.どうしよう。震えて発表にならない。(予期不安)

4.無理だ。辞退しよう。(回避&安堵感)

5.「私は決して研究を世に発表できないのだ」と後悔と罪悪感に苛まれる。(信念の強化)


回避した途端、得られるあの安心感。

長く拷問のごとく続いた不安と恐怖から解放される。もう苦しまなくていい。心身を満たすあの安心感。回避した罪悪感を凌駕するほど強力な安心感。

先ほど述べたようにその強力な安心感は、回避せずに行動し完遂したときに長い不安から解放されるときの安心感と同一の機能にはない。

前者の安心感は社会不安障害特有の悪循環を形成し、後者の安心感は適応的循環を形成する。

全体との関係性から見ると、正反対の機能にあるのだった。

治療前(不安発作に陥る編)

回避しなかったのに悪循環が強化された例をもうひとつ。

1.アブストラクトを送った学会から受理通知が届く

2.また不安発作を起こすに違いない。嫌だ。(自動思考)

3.どうしよう。絶対に震える。発表にならない。(予期不安)

4.無理そうだがやってみたら、発表中不安が生じるのを察知した途端、「まただ!」と絶望し不安に呑みこまれ発作を起こす。

6.「私は決して研究を世に発表できないのだ」と後悔と罪悪感に苛まれる。(信念の強化)

小さな不安が生じた途端に心身が「まただ!もうだめだ」と絶望に至る流れが断たれていないために、回避せずにやってみたのに「決して私は発表できないのだ」という信念に流されていき悪循環も強化してしまう。

悪循環と適応的循環について知らなければ、頑張って、努力して、やってみても、悪循環に呑み込まれるしかなくて、社会不安障害の悪化は続く。

治療前(成功体験の過小評価編)

やれたのに、なかったことにして忘れてしまう。失敗体験だけ憶えている。あるいは、できたのに失敗体験のカテゴリーに入れて記憶してしまう。

1.アブストラクトを送った学会から受理通知が届く

2.また不安発作を起こすに違いない。嫌だ。(自動思考)

3.どうしよう。震えて発表にならないだろう。(予期不安)

4.やってみたら悲劇は起こらなかった。

5.なんとかやったけど、小さな発表だったし、知り合いしかいなかったからね。(過小評価)

7.「私は決して研究を世に発表できないクズなのだ」と自らを責める。(信念の強化)


やれた、やれなかった、発作が起きた、発作が起きなかった。いずれにせよ、「私は常に失敗するのだ」という結論に至る。

それなりにやれても自分のパフォーマンスをマイナス化思考や過小評価して、失敗のカテゴリーに保存してしまう。

なんて不公平なんだろう。自分がどれだけ頑張っても、正当に評価せず、客観的に見ればうまくやれているのに、なかったことにして、忘却の彼方に押し込む。

そう言えば、この件に関する面白い論文があった。

社会不安障害の人がエクスポージャーの結果思っていたような惨状に至らない経験を積んでいるにもかかわらず、自己に対する否定的感情および社会不安障害が維持される謎に関して。

社会不安障害の患者が社会的場面へのエクスポージャーを繰り返し、社会的場面においてのパフォーマンスもその場にいた人々の反応も良好であった経験を積んでいるにもかかわらず、自己否定感が続き病が維持されがちであることは知られている (Clark, 2005).

そこで謎:

なぜ社会不安障害の人はポジティブな経験をスムーズに学習しないのか。

SADの人たちがポジティブな経験を学習できないのは、全般的に外界の情報を処理するのが苦手なのか、それともネガティブバイアスがかかってポジティブな経験を学習しがたいのか。

その謎について Koban et al. (2017) が実験したところ、健康な人たちは自分のパフォーマンスが受けた他者からのフィードバックをプロセスするときにポジティブなバイアスが働き、良い評価を受けたことを記憶し他は忘れてしまうが、SADの人たちにおいては健康な人たちにみられるポジティブバイアスが生じないことを示す結果が出ている。

Our results demonstrated that healthy adults show a positivity bias when learning from social feedback, both regarding their performance abilities and their feelings toward themselves. This positivity bias was absent, if not reversed, in SAD, thereby providing a dynamic computational mechanism for the consistently negative self-image and low self-esteem in this impairing psychological disorder.

(Koban et al., 2017, pp. 9-10)

健康な人たちは自己に向けられたポジティブな評価ばかり憶えている。

健康な人たちはパフォーマンスレベルが低くても、「俺ってサイコー」とバイアスかかって、「サイコーな俺がもう一度やってやるか、ふっふっふっ」と自動的に行動を続けるという循環にあるのか。へえ、なんか、異常だなあ、いや、生きやすそうですね。

現在の私が自分の過去のパフォーマンスを振り返ってみる。客観的に見れば、不安発作に至らずにそれなりにやれたこともあった。数えてみたら悲劇的結果に陥らなかったことのほうが遥かに多い。

ところが、自らの下す否定的評価に流されてしまうと、自己否定が維持され社会不安障害も維持される。

「私は常に失敗するのだ」という信念から始まり、どこを通過しても「私は常に失敗するのだ」という信念に終わる地獄の悪循環。

治療後

1.アブストラクトを送った学会から受理通知が届く。

2.また不安発作を起こすに違いない。嫌だ。(自動思考)

3.どうしよう。絶対に震える。発表にならない。(予期不安)

4.ここで回避したら悪化するよな。(悪循環に気づく)

5.震え始めたら、少し休んで再開すればいいし、失敗も成功もないのだし、やればいいんだよな。(自動思考に対する反論)

6.発表する。(適応行動)

7.やれた。次回もやれそうだ。(学習)


悪循環に気づけば、適応思考を抽出して、適応行動につなげられる。そして「次回もやれるに違いない」との適応的結論に至る。適応的循環が根付くように、「やればやるほど悪循環は弱まり適応的循環が強化されるのだ」との理解のもと、新たなる循環に乗り、その流れを廻していこうとする。

わざとらしい。その通りなのだ。わざとやっているのだから。

悪循環が始まりそうになると、わざとその悪循環から離れるための代替思考を考えだし、適応行動に移行させる。そういうことをやっている。

発表中不安が生じるのを察知したら、悪循環に巻き込まれぬよう、力を抜き、今ここでやっていること、目の前にいる人々に視線と意識を集中する。

「やれなかった」という悪循環形成要素に至らぬよう、いかにぎこちなくても、中断しようとも、任務は果たすようにもっていく。

で、任務が果たせたなら、それでいい。「淀みなく語り歴史を塗り替えるような素晴らしく画期的なプレゼンを…」なんていう非現実的な期待は前もって放棄しておく。

 

道端編

まだあるの?

と思うかもしれない。

まだまだある。いくらでも過去の悪循環が描き出せる。私の人生の主な構成要素は思考と行動の悪循環であったかのごとくで、幼少時からあらゆる社会的場面において多様なる悪循環で溢れている。

けど、豊富に例が挙げられるからといって楽しくなってきて、いつまでもやっていると永遠に記事が終わらないし、パターンとしては似通っているので、以降は軽く図を示す程度に留める。

治療前(回避編)

1.向こうから人が歩いてくる。挨拶しなきゃ。

2.恐ろしい。嫌だ。普通に挨拶できる自信がない。声が出ないかもしれない。(自動思考)

3.道の反対側に移動し相手の存在に気づかないふりをして歩き去る。(回避)

4.「私は挨拶すらできない。人間失格だ」(信念の強化)


治療前(成功体験の過小評価編)

1.向こうから人が歩いてくる。挨拶しなきゃ。

2.恐ろしい。嫌だ。普通に挨拶できる自信がない。声が出ないかもしれない。(自動思考)

3.小さな声で挨拶。

4.まともに声も出せないで返って失礼だったろうな。(過小評価)

5.「私は挨拶すらできないのだ。人間失格だ」(信念の強化)

治療後

1.向こうから人が歩いてくる。挨拶しなきゃ。

2.恐ろしい。嫌だ。普通に挨拶できる自信がない。声が出ないかもしれない。(自動思考)

3.けどここで挨拶しなければ悪化するな。(悪循環に気づく)

4.意識して相手の顔に視線を向け目を合わせてから、大きな声を出すことを心がければうまくいくものだよな。(自動思考への反論)

5.挨拶(適応行動)

6.できたじゃないか。今回視線を合わせて大きな声を心掛けてうまくいったから、次回はさらに大きな声を出せばもっとうまくいくな。(学習)

ところで、自動思考が生じて「ここであいさつしなければ悪化するよな」と悪循環に気づくときの私の心には、不安場面に対峙するのとは別の不安が生じている。

悪循環に嵌り出られなくなり苦しんでいた長年の記憶が蘇ってきて、嫌だ、あのような日々に戻るのはもう絶対に嫌だ、という強い感情が生じる。

あのような地獄に戻る危険を冒すくらいなら、今挨拶するほうがよっぽど楽だ。安全だ。そういうふうに過去の恐怖体験から全速力で逃げるかように、私は行動を決意し実行する。

不思議だと思う。

過去に不安障害で苦悩の日々を過ごした記憶が、罰としての機能を果たしている。私は不安場面を回避して誰かに罰せられることなどなかったが、過去に苦しんだ記憶が、回避しそうになるたびに蘇り、現在私が不安場面と接触した際、望ましくない行動を選択することに対する罰としての機能を果たしている。罰を回避するより、挨拶すると快いからやる、という方向にもっていきたいとは思っているが、今のところそういうふうにはなっていない。

 

思考と行動を循環から切り取らない

5年ほど認知行動療法に基づいた回復への実践を継続してきて、私は頻繁に判断に悩んできた。

  • 私の心に今生じている思考は社会不安障害的なものであり放棄されるべきものだろうか?
  • 私が今やるかやらないか迷っている行動は、やらなければ社会不安障害の回避にあたるものだろうか。

最近は、そのような迷いが生じたときは、循環のダイナミズムの中で捉え判断するようにしている。

例えば、自動思考。社会不安障害的な自動思考が生じても悪循環を形成要素とならなければ、それでいい。自動思考は自動的に起こる。

上記複数の図に描いた循環要素の1~2を見ると、治療前も治療後も変わらないのだ。要素2番目の自動思考は治療後も同内容のものが生じる。生じたとき、思考が悪循環の構成要素にはならないよう、適応的循環に導けば、症状は悪化しない。

治療後は自動思考の強度が弱まっていて、そこに生じた余地から次の構成要素(3.悪循環に気づく)を導く余裕も生じている。そんな強度の違いもある。

図には描かなかったが、回避せずに行動して適応的学習が導き出された場合も、「行動」と「適応的学習」との間に、「不適応思考」は生じている。

治療後においては、行動後に「マイナス化思考」や「過小評価」といった不適応思考が生じると、そのことに気づき、軌道修正する癖が新たについている。

ネガティブな考えが生じたらダメだとか、ポジティブであろうとか、そういうふうに単純で静的な二元論にあてはめて、感情を循環内で機能するダイナミズムから切り離して考えてしまうと、「いけない、ネガティブに考えてしまった。私はダメな奴だ」と信念の強化に繋がる危険があるように思う。その流れを回復へ向かう流れとの対比させて捉える機会も失う。

どんな感情が生じようとも、悪循環の流れに巻き込まれなければ、心配はいらないと思うようになってきた。

誤った感情だから直すのではない。それが過去において自分の認知と行動の悪循環を形成していた感情であるから、そのことを自覚しているから、その感情が生じたとき悪循環の形成要素とならないよう努める。先ほど紹介したようにSADではない健康な人たちもバイアスのかかった誤った感情に支配されている。誤った感情が積極的な行動パターンとともに循環を形成している。「私って素晴らしい」というバイアスがあるので、次回も挑戦出来てしまう。それは誤った認識が導く循環でもあるのだ。

ついでに言及すると、健康な人々は思考と行動の悪循環に陥っている人々を「自信がない人」「自己肯定感の低い人」と否定的に評価し、自分のことを自信があり自己肯定感が高く故に「素晴らしい」という二元論を展開しがちであるが、それも健康な人々に備わる「誤ったポジティブなバイアス」が自らを称賛し他者を裁いているだけのことかもしれないから、気にすることはない。認知の歪みを指摘せず暖かく見守りたい。

ひとつ健康な人々の思考と行動の循環とSAD的な循環が異なるのは、適応的であるか否かという点。健康な人々の思考と行動の循環は、ある部分おめでたくて、自分に都合が良くて、単純で、あまり真似したくないとは思うけど、適応的ではある。

対してSAD的循環は非適応的。循環を経るたびに、その渦に深く嵌り、抜け出せない。社会に適応したい、貢献したい、やれる能力があるはずなのに、やりたいのに、やれない。不適応を深め苦しむ。

それでは苦しい。適応したいから、適応的思考と行動を努め、かつての悪循環に再び陥らないようにする。そういうことであり、そこに正しいか誤っているかという問いを挟むのは妥当ではない。

行動についても同様に考えている。

やらなければ、回避なのか。

全てをやるのは現実には不可能である。世の中やらなくてもいいことがたくさんある。

自分がやれるようになりたいと思っていない行動、やれるようになる必要が感じられない行動の中に、苦手なものがあっても、やる必要などないのだろう。やりたいと願っていて、やる必要があって、成し遂げることができればとても嬉しいと感じるもの。そこにコミットしていていいのだと思う (i.e., Acceptance and Commitment Therapy: ACT).

また、苦手な場面があったとしても、過去のその場面における自分の行動パターンを振り返りそこに悪循環が認められないなら、常に挑戦すべきなどと自分を縛り生きづらくなる必要はなく、無理のない範囲でやっていけばいいのだろう。

では、苦手な場面でかつそこに過去における悪循環が認められるなら、やらなければ回避であり、悪循環を強化させるのだろうか。

やれるときはやるほうがいいのだろうけど現実は多彩な状況に満ちており、必ずしも実行に移すのが適切な判断ではなかったりもする。(例:忙し過ぎる)

やらなくてもSADにおける回避にはならないと最近の私は考えている。ただ、やらなかった場合、その実践の欠如が「回避」とならないよう、「私はやらなくてダメな奴だ」などの信念に至らないよう、思考と行動の悪循環の要素とならないよう、気をつける。

SAD的悪循環を引き起こしがちな思考や行動はあっても、それらの思考や行動が必ずSADを悪化させるとは限らないのであって、循環やこれからの人生という観点においてその都度判断していくのが現実的・適応的なのだろう。最近はそんなふうに理解している。


自由について

このようにして、SAD的な不適応的悪循環に流されそうになるのを察知しては距離を置き、代わりに適応的循環に乗るよう努めてきた結果、適応的循環を強く意識してわざとやらなくても自動的に、いや半自動くらいだろうか、やれるようになってきた。

これが認知行動療法において期待されている状態ではあるのだろう。悪循環が適応的循環に置き換えられた状態。

それは望ましく喜ばしいことなのだと思う。しかしながら、私には不自由な感じが微妙にある。なんだろう。認知行動療法が提供してくれた循環の駒になってしまったような、新たな循環にまた嵌ってしまった一抹の哀しさのような。

文句などない。後悔もない。

もう一度人生を遡って変えていけるなら、もっと人生の早い時期に認知行動療法に出会えいたいと思う。

揺らぐ感覚の中、ひとつこれだけは言える。認知行動療法は強力に私を支配する。その支配力を前に、私は無力感に見舞われるのだった。認知行動療法は私の人生を乗っ取った。

私は自由な存在ではなく、循環の中でしか生きられない。

人間が自由ではないことも、一般に言われるような意味での自由意志など存在しないことも知っていた。治療を受ける以前から。

治療を受けて、度重なるエクスポージャーの結果、新たなる循環が根付いて、私は循環上のコマでしかないのを事実として自らの心身を以って思い知った。

そういうものだからと諦め、適応的循環に流されつつ楽しく生きればいいだろ。という見方もできる。あるいは、この経験を以って私自身にとっての自由という概念をアップデートする必要があるのかもしれない。

自由は、完全なる自律とは異なる。人は循環の中でしか生きられないかもしれないが、特定の循環を選び取りその中の駒として生きることができる。苦悩を深める循環から自らの意思で離れ、自分の選んだ循環の中で生きることができる。そこに自由がある。それが限定的な自由であっても。

References

Clark, D. M. (2005). A cognitive perspective on social phobia. In W. R. Crozier & L. E. Alden (Eds.), International Handbook of Social Anxiety: Concepts, Research and Interventions Relating to the Self and Shyness (pp. 193–218). Chichester: John Wiley & Sons.

Koban, L., Schneider, R., Ashar, Y. K., Andrews-Hanna, J. R., Landy, L., Moscovitch, D. A., … Arch, J. J. (2017). Social Anxiety is Characterized by Biased Learning About Performance and the Self. Emotion. https://doi.org/10.1037/emo0000296


投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.