社会不安障害の私が「あり得ないっ!」と思う状況あれこれ

日常生活において、社会不安障害(SAD)の私がこれってあり得ないよって思うことについて。

私の住んでいるオーストラリアでは、知らない人に突然話しかけてもいい。知らない人同士で Hello とか挨拶したり、お喋りを始めたりする。

そういうのには、慣れている。それはいいが、私はやたらと人に話しかけられる。なんだってSADの私にこんなに話しかけるのか。いや、話しかけてくださるのか。

たぶん、見た感じに危険を感じさせるものがないからかもしれない。話しかけても噛み付いてきたりはしなさそうだ。コイツは平気そうだ。ひとつ、話しかけてやるか。そんなところだろう。

先日、街の噴水近くにいたら、中年男性に話しかけられた。

zun_odorumizu0054_tp_v

にこやかな感じで近づいてきたと思ったら、

「この噴水にね、シャンプー入れると楽しいんだよ。よく、みんなでやるんだけどね、シャンプー入れると、アワアワになって、ホント、楽しいんだよ!」

えっ? シャンプーを入れる? 公共の噴水でそんなことをしてしまっていいのだろうか。しかも大の大人がみんなして、そんなことして遊ぶのか?

「…そうですか、それはアワアワになって、壮観でしょうね」などと笑顔で言う。かろうじて言う。すると、

「誰か、シャンプー持ってないかな」とキョロキョロ。その遊びをいつも一緒にやる仲間の姿を探しているようだ。「後で、持ってきてやるからね。楽しいよ」

と言って、声を上げて笑いながら去っていってしまった。

sadkanten1

 

職場のおトイレ。ここでもある。SAD的にはあり得ないと思うことがある。

toilet

 

 

 

 

職場のトイレは三つ並んでいます。

トイレに行ったら、Aが使用中でした。BとCはあいています。

さて、BとCがあいているのなら、SADのあなたはどちらに入りますか?

Cです。

当たり前です。SAD的には当たり前です。

ところが、多くの人達にとってはそうではないらしい。

私がAに入っているとする。BとCはあいているとする。

すると多くの人達がBに入ってくる。

ちょっとちょっと。なんで?

私は戸惑う。

いそいそと出ていく。だって、はち合わせたくないんだもん。

ところがトイレに行く多くの女性たちは、トイレ内で同僚に会うと「あらー」とか言って、うれしそうに喋り始める。

そうだね。会えてうれしい。そのことに異存はない。けど、毎日顔合わせてんじゃん、こんなとこで喋らなくても、とも思う。

どうやら、この人達は、トイレに行ったとき、どこが使用中かなんてことは意識しないらしい。

どこが使用中だから、自分はどこに入るべきか、なんてことは考えたりしないらしい。

さらには、使用中のトイレから最も離れたトイレに入ろうなんて考えには及ばないらしい。

sadkanten2

 

私は学生のとき寮に入っていた。

寮の学生たちはみんな知り合い。まあ、お友達だ。

寮の食堂で食事。

そこには複数のダイニングテーブルがあった。

tables

上の図のようにテーブルが三卓あるとする。

黒い点はすでに人が座っている席を示す。

さて、私はどの席につくか。

そうです。一番右のテーブルの右側の席に向かいます。そこでひとり食事を始めます。

いただきま~す

そこへメキシコからの留学生カルロス君が加わります。後から人が加わるのは構わない。実は、ひとりで食事は寂しい。だから人が来たほうがいい。

すでに人ががやがやと食事をしているところに入っていくのはヤダ。それだけのことだ。人が嫌いなわけではない。

カルロス君とは話が合い、かなり仲良しだった。だから、同じテーブルで食事をすることが多かった。

カルロス君、今日は神妙な顔つきです。どうしたのかな。

「ねえ、なんでさ、いつも、ひとりで座ってるの?」

そうか。それは疑問に感じるのも無理はない。

あのコは食事中は楽しそうに会話するのに。誰とでも楽しそうに話すのに。人が嫌いなわけじゃなさそうなのに。

それなのに、なんで、毎日毎食、誰も座っていないテーブルを選ぶんだ、このコは。普通、ひとりで食事なんて嫌でしょう。なんで皆が座っているとこに加わらないの? ラテン系観点から言ってあり得ない、と思うかもしれない。理解を越えた事象かもしれない。

「私はね、フロンティアなの」

「へっ?」

「私が来るまで、このテーブルは開拓されていなかった。だから誰も座れなかった。込み合ったテーブルに行くしかなかった。そこで、私はこのテーブルを開拓した。だから、あなたもここに加わることができた」

「あー…」

「礼はいらない。ただこのフロンティア精神だけは知っていてほしい。きっとあなたもやれる」

「そうだね。フロンティアはイイね」などと、カルロス君はなぜかこのバカげた説明に満足げ。

他の寮生たちといったら、あり得ない。あの人達は、人のいるテーブルに席がなくなっても、別のテーブルから椅子を持ってきて、ぎゅうぎゅうになってまでして、みんなと一緒に座ったりする。

sadkanten3

 

ここでふと思う。

考えてみれば、そこには一理ある。あのときは深い考えなどなしに冗談で言ったのだが、実はそこに大切なものがある。だから、あの聡明なカルロス君も納得したのだ。

多くの人達はどんなに込み合っていても皆と離れるのが不安なので東に留まっている。

反対にSAD的観点から言うと皆と戯れているほうが不安なので自然に西へと向かう。どんどん、遠くへ行ける。

すると、図らずも新しい地で新しい発見をする。

さらに、遠くから東を見るので、東に留まっている人達が近視的になってしまい見えないものが見えてきたりもする。

皆と違うやり方でやることにも不安を感じない。全く別の方向へ、全く新しいやり方で歩みを進めるからこそ、とんでもなく素晴らしいものを見出すこともできる。

皆から離れていくことは誰の迷惑にもならない。離れていくことで開拓していくのだから、世の役に立ってしまうのだ。

だから離れていってもいい。常に目を開いて、見出そうという気持ちさえ持ち続ければ。

そうだ。

無理なく、目指すこともなく、フロンティアになれるのだ。

斬新なSAD的観点は世のため人のためにきっと役立つはずだ。

よって結論はひとつ:

sadfrontier

 

 

投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.