傷ついた体験を伝えたいときは傷ついたと言わずに語る

こういう経験はないだろうか。

「傷ついた」と言ったら、どうも伝わらなかった。あるいは自分が傷付いた事実を否定された。

「つらい」と言ったら、どうも伝わらなかった。あるいはつらいと言ったことを咎められた。

自分の経験してきた障害や困難について伝えたいのに、伝わらないのだ。

 

そんなとき、苛立つ。あの人は理解のない人だ、想像力の足りない人だ。そう思うかもしれない。

しかし現実としては、たいていの場合、相手は理解のない人でも、想像力の足りない人でもなく、できれば誰にでも理解を示したいと思っている心の温かい人であったりする。

 

それなのに、なぜ伝わらないのか。

簡単なことだ。

人はそれぞれが別の人生を歩んできたからだ。「傷ついた」と聞けば、自分が過去に傷ついたときの感じが想起される。「つらい」と聞けば、自分が過去につらかったときの感じが想起される。

自分が過去に経験した感情を超えて他人を慮るなど、神業に近い。特に、「傷ついた」「つらい」などの単語を持ち出されると、その傾向は顕著となる。自分にとってぴたりと当てはまる単語を使うと、相手にとってはぴたりとこなくて伝わらない。そんなパラドックスが生じる。

ならどうするのか。

それも簡単なことだ。

「傷ついた」「つらい」などのキーワードを使わなければいい。

 

過去に傷ついた体験について語りたい。今つらいと思っていることを伝えたい。そんなときは、キーワードを使わない。傷ついた体験を語りたいなら「傷ついた」とは言わない。つらいと言いたいなら「つらい」と言わない。

単語に頼らない。

代わりに、その独特の傷ついた経緯をじっくりと語る。つらい感じを緻密に表現してみる。

そもそも、語りたい、伝えたい、と思うのは、その体験・感情が特殊なものであるという認識が大きいことも関係しているのではないだろうか。特殊だからこそ、通常体験できない種類のものだからこそ、精神疾患の当事者は、自分の体験を伝える必要性を感じるのではないか。少なくとも、私の場合はそうだ。

それは特殊なものだからこそ、通常の単語に託せない。託してしまったら、そのとき、私の特殊な体験は、その特殊性という生命を絶たれるから。

 

キーワードを使わずに表現するなんて難しい、と思うかもしれない。

ところがやってみると意外なことにキーワードを使わないほうが伝えやすいことに気づく。概念に昇華させずに、起こったこと、自分の心の反応、意識が掴み取れるものをすべて生のまま、淡々と簡易な言葉で描写していく。

 

少し訓練してみてもいい。

自分が過去に傷ついた事件について伝えたい、と思ったら、400字で書いてみる。「傷ついた」を使わずに。

自分が今つらいなら、400字で書いてみる。「つらい」を使わずに。

傷も、つらさも、ひとりひとり、その都度異なるのに、ひとつの単語を当てはめるなんて乱暴だ。次第にそんなふうに思えるようになる。

これは文筆の訓練としては基礎的なもので、意識的にやりはじめると結構誰でも短期間のうちにできるようになる。

By: Pawel Loj

 

精神疾患や発達障害、特殊なトラウマを負った当事者が、そのような体験をしたことのない一般的な人々や治療にかかわる人々に伝える際、ひとつのキーワードに託さずに言葉を綴る。そんな心がけひとつで、格段に伝わりやすくなる。

それは特殊な語りの枠を離れた日常の場面でも同様かもしれない。日常の場面で身近な人に感情を伝えるとき、「悲しい」「うれしい」「苦しい」といった形容詞が、伝えたいことのキーである場合は使わない。伝えたいことが名詞のときも同様に使わない。

たとえば、「絆」と言いたいなら言わない。そんな理想に塗り固められた観念的な言葉を出されたら、途端に辟易されるだろう。かわりに、絆のことを思うようになった経緯を、焦らずに描写していく。話し終わったときに、相手が、「それこそが絆と呼ぶべきものなのかもしれない」と言ってくれれば大成功。

キーワードは語り手のものではなく、受け手のもの。

伝えようとするときは小さな手間をかけ、聞こうとするときは少しの時間と空間を割き、自分の経験の特殊性と相手の経験を同時に大切にする。互いの差異を敬う小さな繰り返しが、少しずつ溝を埋めていくのではないか。そんなふうに思う。

 

 

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投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.