「科学者のように仮説を検証しましょう」という認知行動療法の謳い文句は違うと思う

私は治療を受け始めた頃、認知行動療法とは自分の感じ方を客観的に検証していき客観的な結論に導くものだと思っていた。認知行動療法のセルフヘルプ本などにもそういうことは書いてある。「科学者のように客観的に検証していきましょう」と自分の感じ方、思考パターン、行動パターン、現実の様相について検証してみるよう促し、認知行動療法の世界へと誘う。

しかし、認知行動療法が私の生活の一部となり10年近くが経過した今、認知行動療法をやればやるほど、それは違うのではと思うようになった。というのは、私が認知行動療法で効果を実感するに至るとき、きまって客観的な検証プロセスを経ていない。客観的な検証プロセスを経ているように見せかけて、バイアスのかかった結論にもっていっている。私が認知行動療法をやってうまくいくときは、客観的に物事がどうであったかにかかわらず、いつも意識的に特定の結論へと導いている。

すると

何だこれは。科学的でも客観的でもないじゃん。

そう思うようになってきた。

例えば。

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感情を交えず出来事を描写することの難しさについて

出来事と感情を区別するのは、認知行動療法でやるコラム法・認知再構成法でも基本のひとつと理解している。それでいて、何年やってもこれが難しい。

何が難しいかって、出来事の記述が難しい。自動的に湧き上がる感情は遭遇した出来事と割れ目なくくっついている。割れ目のないところに適当に見当をつけて、割れ目を作り、引き剥がしてみるのだ。きれいすっきりとは引き離せない。難しい。

たとえば、私は「大人しいね」と言われるのが嫌いである。

大人しいと言われた途端、すごい速さで自動的に不快感が生じ不安と混じり合い、慌てる。言葉はおろか、形も、輪郭もない、心身を高速で巡っていった不快な何かを言語化してみる。

「まともに喋れないのがバレた。変な奴だと思われているに違いない」

「大人しいね、だって? なんて、野暮なことを言うんだろう」

「もうダメだ。普通の人ではないのがバレたのだから、今後この人とはまともな関係は築けないだろう」

「これ以上の醜態を晒す余裕は私にはない。二度とこの人と会わないようにしよう」

不安、怒り、絶望、回避思考… 次々に出てくる。 “感情を交えず出来事を描写することの難しさについて” の続きを読む

SNSを利用した自助グループ的認知行動療法:#認知再評価

今回、自助グループ的なSNS風の認知行動療法(CBT)プラットフォームを開発し、TIME誌Sciencedaily でも鬱や不安障害のための新たなセラピーモードの可能性を示したと紹介されたモリスさんは、少し変わった経歴を持つ。

元々、心理学専攻であったが、新たなセラピーのありかたを情報工学が提供できるはずだと考える。そんなポテンシャルは、従来の心理学の枠組みでは探求不可能だった。そこでマサチューセッツ工科大学の博士課程に進学。今回、話題となっているプラットフォームの制作に繋がった。 “SNSを利用した自助グループ的認知行動療法:#認知再評価” の続きを読む