「あなたは普通のまともな人です。性格とか、個性のうちで、せいぜいちょっとした不調でしょう。精神疾患などではありませんよ」
と言われるのは相変わらずだが、そう言われるときの自分の反応は以前とはすっかり変わった。
治療を受ける以前は、
「そうだよね。病気なんかじゃないよね」と同調。自分を納得させ、努力を積んでいった。(もちろん、自己流の努力を積むほど、病状は悪化していく。)
今では、私は同調しない。
私が深く精神を病んだことは間違いない。そしてそのことが自分の価値を下げるとも思っていない。
だから人々の「あなたは普通です」という反応に同調しないでも平気でいられる。
では、「あなたは普通です」と言い続ける人々の思考はいかにして導かれているのだろうか。論法を整理してみた。
「普通」ではない全ての人は、人間失格である。
全ての精神疾患罹患者は、「普通」ではない。
社会不安障害は精神疾患である。
ゆえに、社会不安障害罹患者は、人間失格である。
このようなスティグマに満ちた論理に同調していたということは、私自身がこの論理に従っていたということになる。
今分かっているのは、この自分自身に向けられた差別・スティグマが、私の病状を悪化させていた大きな要因だったということだ。
不安症状が起これば人間失格だと思っていたので、症状が起こると瞬時に激しく焦り自分を責める。
それでいて、病んでいるという事実を自分が認めない。
病気ではないと思っているから、受診しない。
意思が弱いから震えるのだと思っているので、自分を責める。それがさらに病状を悪化させる。
そして、この悪循環を止めるものがない。深く病むわけだ。
現代、社会的な意味で使われるスティグマという言葉は、その属性をもった人に対して差別することの社会的合意がある客観的属性のことを意味する。
社会学者のゴフマン (1963) はスティグマを
- ヴァーチャルな社会的アイデンティティ (virtual social identity):社会から求められるその人のあり方
- 実際の社会的アイデンティティ (actual social identity):実際のその人のあり方
の間の不一致と定義している。
「普通」であることが社会から求められている (virtual social identity)。実際は障害という属性を持っている (actual social identity)。普通ではないという属性を社会はまともな構成員の特性として認めない。そこに不一致が生じる。
障害のカミングアウトという場に対峙した人々は、その人を守るために慌ててそこに蓋をして、「あなたに障害などありません」と言う。そこに差別することの社会的合意がある客観的属性の提示を見てとるからだ。
誰かが精神疾患を患っていると認めることで、その人の人権が著しく損なわれると思っている。
だから、「私もあなたも人間だ」と伝えるために、「あなたは患ってなどいない」と言わなければならないのだ。「あなたは普通だ」と言わなければならない。
人間として扱われたいために本人も同調し、ヴァーチャルな社会的アイデンティティの仮面を被り、「普通」に合わせる。求められる姿と実際の姿の「不一致」の齟齬がじりじりと精神を蝕んでいく。
ここで「普通」と呼ばれる属性は、体の病気を含み精神の病気を含まない。だから、「風邪をひいた」と言っても、「あなたは風邪などひいていません」と言われることはない。
精神を病むという話題は、病気か否かというスケールを速やかに離れる。表向きは、病気か否かの線引きについて語っているようでありながら、その内実は被差別階級か否かというスケールの議論であり、議論している当人達はそのスケールの二重性に気付かない。
子供に多動・衝動的な行動が続いた時期があり、療育センターでの検査に連れて行ったことがある。日本でのことだ。
幼稚園で、明日はADHDの検査を受けるため子供は休ませると伝えた。その瞬間、先生の顔色が変わった。
「この子はそんなんじゃありません」
そんなん...って。
「思いやりのある優しい子です。元気過ぎるだけです」
うん。でも、そういうことではないんだ。
役所に電話して担当の人に話を聞いてもらった結果、そういうふうなら療育に連絡したほうがいいでしょうと取り次がれ、さらに療育の担当の人が30分間じっくり聞き取りをした結果、それはきちんと検査を受けたほうがいいですね、と予約を取ってくれたのだと説明した。
説明している間、先生はずっとナーバスな表情を浮かべていた。
私としては、障害がある場合のことを考えて、支援に繋げていくための第一歩となる検査を早めに受けておいたほうがいいだろう、くらいの気持ちだった。検査を受けさせることそれ自体が、大事件のごとくに捉えられるとは思っていなかったので、先生の反応は予想外だったた。まるで、検査を受けさせようとすることが、ADHDではないかと思うことが、子供に悪い子とのレッテルを張ることと同じ意味とされているようだった。
思いやりがあり、優しくて、成績優秀な良い子が、支援を必要とするのはおかしいのか。支援を必要とするのは悪い子だということなのか。子供が奇声を発するのも、大人し過ぎるのも、性格だから放っておくのが良く、検査を受けさせるなんて子供を信じない悪い親のすることとされているのか。こんなふうにして、支援を必要していた多くの子供たちが放置され、大人になってからも苦しみ続けるのだろうか。
これは善意から発せられた発言であるという点から、スティグマに起因する出来事であると判別できる。子供に障害があるかもしれないと思うことは、その子供に差別されるべき者というレッテルを張ることに繋がるために、それを認めないことが善意とされる。
スティグマが最大に高まった社会においては、「実際のその人のあり方」を明かすと生命の危険に晒されることとなる。
性同一性障害(GID)の女性が自分がGIDである事実を職場で隠すことに苦痛を感じるようになり、同僚らにリストカットの経験なども含め告白したら、それを理由に退職を強要され、解雇通知を受けた頃にうつ病を発症。その後、「皆さん、ありがとうございました。そしてさよなら。迷惑かけてすみません」という遺書を残して自宅で自殺した。
『毎日新聞』より要約[参照サイト]
自分の実際のあり方を明かしたら、それを理由に仕事を奪われ、結果として死に追い込まれた。
このようにスティグマの最大値に達した社会のことを、アンネ・フランク状態と私は勝手に呼んでいる。
自分の実際のあり方を隠し続けることでしか、安全に生きられない。
普通ではない特性や障害を感づかれただけで、就労や教育の機会を奪われることは、日々起こっている。事件とならないのは、大抵の場合、機会の奪取がこの事件よりも巧みに行われ、障害が理由だとはっきり告げられないからだ。次第に生きる糧を失っていき死に至るというパターンがリアルであるのは障害者なら知っていることだろう。だから、いくら本人が受容できていたとしても、カミングアウトというのは慎重にやらなければならない。
アンネ・フランクが生きた環境は遠くの国の歴史ではない。身近に毎日起こっている。
ある属性を判断基準に誰かを差別してしまった人がいるなら、その人は加害者だろうか。
子供の障害を認めなかったばかりに、必要な支援と治療を受けられずに、その子が大人になっても苦しみ続けるなら、その人の親は加害者だろうか。
社会不安障害に苦しんでいると友人に明かされた人が、「あなたは普通です」と言ったなら、その人は加害者だろうか。
加害者という言葉の定義を結果に求めるなら、スティグマを高めたという点や、誰かを傷つけたり、人生を狂わせてしまったという結果のみを見るなら、そうかもしれない。
しかし、これらに共通しているのは、良かれと思ってやっている点である。
これらをやって良いことにしてしまったのは、強烈なパワーで人々を洗脳していくスティグマであり、洗脳されてしまったという点において、上記の人々は被害者である。
数ヶ月前、ある小児科医の活動が騒ぎをもたらした。その医師は地域に精神障害者の居住施設ができると聞いて、「危険な精神障害者を地域に住まわせることに断固反対する」と宣言し、署名活動を開始した。
精神障害者に対するあからさまな差別であると散々非難されるという結果となった。
この医師は加害者か? 地域に住む許可が得られるような精神障害者は危険な行動などまず起こさないとは知らず、精神障害者の行動は予期できず危険であり、連続凶悪事件の犯罪者を近所に住まわせるようなものだと信じ込んでいたようだ。それで、良かれと思ってやった。
無知を罪とすれば罪となるだろう。他方、スティグマに呑まれ間違った行動に出てしまったという点ではスティグマ被害に遭ったとも言える。
このような出来事は明るみに出ないだけで実際には毎日、日本中で発生していて、その一件が偶然顕在化したに過ぎないのだろう。恐ろしいのは、社会に精神障害に対する無知がはびこっているという現実であり、そんなスティグマ社会で個々人が今日も誰かを良かれと信じて傷つけているという歪んだ現状だろう。
差別者という仮想敵を想定したり、当事者間の団結を強調することで、当事者側が「差別されるべき者」と「そうでない者」との間に引かれた線を強めてしまうことがある。
これも少し前のことだが、障害児の保護者の発言が拡散されていたことがあった。「うちの子は知的障害はないから」と知的障害の子の保護者に言ったということだった。
障害と障害の間の差別とか、当事者間で団結せずに差別したという非難を受けていたが、そのように非難すること自体が差別を助長しているように見えるのだった。
なぜか。
障害児の親の発言だったという理由で非難されたからだ。同じ発言が障害児の親からではなく健常児の親から発せられたのなら、注目を浴びることはなかったからだ。
健常児の親に許容される発言が許されない。つまり障害児の親は健常児の親と比べて発言権が低いということになる。同じ幅の発言が許されないのだから。
ここで障害児の親の権利を低めたのは、他の当事者たちからのバッシング行為だった。「お前はあちら側ではなく、こちら側だろう」ということで、「こちら側」に引きずり戻す。そうすることにより、他の当事者たちが、「障害児の保護者」をスティグマ階級としてひとくくりにして、「あちら側」と「こちら側」の間に引かれていた線を強化した。
差別発言以上にスティグマを生成、固定化・強化するのは、差別を前提とした行為であり、社会の構成員の間で繰り返し成された行為 ― つまり健常児の親と障害児の親の権利を差別化する行為が、スティグマ階級と非スティグマ階級という区分をリアルなものとしていく。
多くの場合において、当事者側の抱くスティグマのほうが威力はすさまじい。その結果スティグマ階級の維持に図らずも寄与してしまうというところが、スティグマのやっかいな部分のひとつなのだった。
このように、ある属性をもった人に対して差別することの合意を高めてしまった点において、差別発言と責められた保護者も、それを責めた人々も、押し並べてスティグマの被害者となる。
「精神疾患における正常と異常の間はグラデーションになっていて明確な線を引くことはできない」
この言説に誤りはない。診断基準、診断に用いる尺度、誤差等、様々な要因によって正常と異常の間の線はグラデーション化する。
しかしそれは精神疾患に限ったことではない。精神以外の病気にも正常と異常の間にはゆらゆらした部分はある。それなのに、精神疾患に限って、「明確な線を引くことができない」ことが強調される。
「今日うちの子の体温は 37.5 ℃でしたが、プールに入れてください」
と言えば、学校の先生は「37.0 ℃以上の場合は、入れない決まりですから」と言うだろう。
「測定に誤差があったかもしれませんから。予測式体温計ですし」
と続けても、「ダメです」と変わらないだろう。そして、たぶん確実に、「この親、モンスター」と思われる。
他方、「うちの子は発達障害の診断を受けました。特別な支援をお願いします」
と言えば、多様な反応が予想される。すぐに支援に動いてくれる場合もあれば、「いいえ、お子さんは普通です。成績も優秀です。授業の進行を乱したりもしません」と言われた挙句、「診断を受けても、正常と異常の間はグラデーションですから、誤差かもしれません」
と親の方が先生に言われてしまう場合もあるだろう。
発達障害や精神疾患の診断を受けたことを話しても、実生活のあらゆる場面で、グラデーションのゆるゆるとしたところに押し返され、「普通みたいなものだから、心配いりません」 そんな善意に遭う。「普通」とラべリングされたところで、当事者は皆と同じにはなれないが、「普通」とされた以上、そこは自己責任とされる。モンスター化しているのが社会だから敵わない。
グラデーションの強調がスティグマに起因しているのが、言葉の選び方に表れている例がある。
発達障害の診断が正常と異常を分ける線に近いことを、「グレー」と表現する。この曖昧なゾーンをグレーと表現するのは日本独特の慣習である。
「グレー」とは、いかなる用例で用いられるだろうか。
何らかの不正疑惑をかけられ、明らかな不正と判ると、「真黒」・「ブラック」と表現され、明らかな不正に近い場合は、「黒に近いグレー」などと表現される。
「ブラック企業」という表現に説明は不要だろう。ブラックと呼ぶほどひどくはないが、ブラック企業的な部分がある企業を「グレー」と表現することがある。
「グレー」 ― それは悪いことの度合測定の際に使う表現だ。
発達障害に関して、「グレー」と表現することが慣習になっているとは、つまり、発達障害の診断を受けることは、不正を犯した者や犯罪者、ブラック企業経営と同様、罪悪とみなされているからであり、したがって同様のスケーリング(無罪―グレー―有罪)表現が用いられる。
「グレー」 ― それはスティグマに起因した表現なのだ。
「障害児」と呼ぶより、健常児的な部分も残した「グレー」のほうが優しい言い方だと多くの人々が思っているかもしれない。しかしそれを優しさだと思うこと自体が、精神や発達に関わる障害に対するスティグマから発生しているとは多くの人々が気付かない。
「障害」をひらがなで書いたり、別の漢字に置き換える等の慣習にも同様のスティグマが見てとれるが、ここまでの指摘で既に明らかだと思うので、論じない。
こうして、体の病気の曖昧な部分については「グレー」と呼ばないのに、精神や発達に関わる障害については「グレー」と呼んだり、殊更にグラデーション部分を強調したりすることにより、「正常 vs 異常」の間に付加された価値体系は固定化され、スティグマを強化していく。
こう見ていくと、スティグマのほうが何らかの有機体のようにも見えてくる。人々の善意を利用して、さらに社会に深く根を下ろし、自らを再生産させていく、モンスターのようなもの。
この悪循環を止めるには、スティグマのモンスター的威力について理解するのが最も効果的かつ平和的な方法に思えてくる。自分は普通に近いと主張する当事者を差別者と罵ったり、図らずも誤った善意を施した人を無神経だと非難するのも、平和的解決を導くどころか、スティグマを強化する。
私が受けた治療のひとつに、症状に対して自分自身が抱いていた否定的価値観を見直し、解いていくという作業があった。それは、自分自身が病に対する根強いスティグマに支配されていたことに気付いていく過程であり、そして気付いてからは、自らの精神をスティグマから解放していった。
その解放の過程を経て、現在私は、自らの属性に対して差別と偏見を抱いていた過去に対してすらも、完全に責任を放棄するに至った。私は社会に渦巻く強大なスティグマに洗脳された被害者であり、故に私はその件について責任を負わない。
正常と異常の間の曖昧さについての議論の狭間で見失われているのは、皆が団結して闘うべき対象は仮想敵ではなく、スティグマそのものであるという点だ。皆がスティグマの被害者であるという点で同じ位置に立つ。そんな理解が広まれば、きっとスティグマは溶けていく。そう信じている。
Reference
Goffman, E. (1963). Stigma; notes on the management of spoiled identity. Englewood Cliffs, N.J.: Prentice-Hall.