私のケースでは、認知療法は効果があったと思う。
考え方の癖に気がついて、そして社会不安障害についての認識を変えることで、それまで莫大な不安が生じていた場面でもちょっとの不安しか生じなくなった。
ちょっとの不安なら、ゆっくり呼吸をして、体の力を抜けばコントロールできる。
普段の生活も楽になった。怖いことが少なくなった。不安を感じても、ああ、いつもの思考の癖だなと気づき、客観的に対処できるようになったから、無理なくやり過ごせる。楽しく毎日を過ごせる。
まず、考え方の癖について気がつくとは何か。
考え方の癖というものが私の心の中に根強くありながら、私自身は自分の考え方に癖、あるいはパターンがあるという事実に気がついていなかった。
それどころか、なぜか私は自信たっぷりだった。私には考え方の癖などない。いつも客観的に考えているもん。
そもそも客観なんて存在しない。
それを知っていたはずなのに、他方で自分は客観的に考えられると思っていた。
社会不安障害の人がプレゼンで不安になってしまうのは、周りの人たちが自分を悪く評価していると思い込んでるから、とか、自分はダメな奴だと否定的になりやすいからなどと本などに書かれている。
大まかな表現で言えばそうなのかもしれない。けど、そんな大まかな表現では当人には分からない。
私は以前から周りの人たちが私を悪く評価しているとは思っていなかったし、自分で自分について否定的になってしまうことはないと思っていたので、考え方の癖というものがどれだけ多岐多様に心の奥に根付いているのか分かっていなかった。
さらに悪かったのは自分は客観的に考えることができるなどという妄想を持っていたことでしょう。
ひとつやふたつの例から結論付けしてはいけない。
データを改竄してはいけない。
結論が先にあってはいけない。
そんな結論に達するまでのたくさんの決まりごとを、大学院で何年もたたき込んできたし、その後も結果・結論に至るまでの過程の正確さにこだわってきた。だから、主観的になってしまったり、主観で観察過程を曲げてしまうということはないだろう。
ところが実際には、私の社会不安障害にまとわる考えは、まさに結論先にありき。
不安を生じる場面になれば絶対に不安発作に陥り、そのため私の人生は絶対に悲観的なものとなる、と結論付けていた。
その結論を優先させるために、データの改竄を行っていた。
確かにプレゼン場面における不安発作が数回あった。
でも、すごく緊張したけど不安発作に至らなかったプレゼンも数回あった。
それなのに、私はその成功体験をすっかり忘却に押しやってしまっていた。
あのときは、大きなプレゼンじゃなかったから。などと理由をつけて成功体験に数えなかった。
データの改竄はやっちゃいけません、とあれだけ教わったのに。
人間は主観的な生き物であり、客観は幻想である。今回の治療の経験から、そのことの本当の意味が分かったように思う。勉強になりました。ありがとう!認知行動療法。
プロのセラピーを受けるまで私はまったく自分の考え方の癖に気がつかなかった。以前ブログに書いたように。
考え方の癖って、本人は気がついていない場合が多いんじゃないかな。
思考ってどうしても自分の中でぐるぐる廻ってて、自然なことになってしまっていて、巡り巡る思考が癖に過ぎないことに本人は気がつかない。
気がついてからは、ゆっくりじっくり、考え方の癖を見つめなおしていった。
私の持っていた考え方の癖のひとつに社会不安障害に対する考え方がある。
社会不安障害を悪いことで恥ずべきことだと思っている。それ故、社会不安障害を患う自分はもうどうしょうもない奴だと思っている。
だから、社会不安障害体質であることを本人が受け入れることを目指していけば、症状も改善してきて、楽に生きられるようになる。
ところで、受け入れると一言で言ってみても、それは具体的にどういうことなんだろう。
私はそう疑問に思っていた。
今思うのは、それは結局、社会不安障害に対する自分の価値観を変えていくことなのだろう。
価値観は多様なものだっていうのは、誰でもそう思っているだろう。
多様なのは価値それ自体に実体がないからだ。
例えば、一万円の価値は人の状況によっても違うし、周りの状況によっても違う。
無人島の例は経済の基本を理解するための小話なんかでよくでてくる。金塊を持っていても無人島にいたら何の価値も持たない。
だから現実に金塊に価値があるということは、金塊を価値あると思う社会が価値を生み出したためで、金塊自体には決まった価値はない。
関係性に基づく、相対的なもので、価値自体には実体がない。
社会不安障害に対する価値観だって、そうだろう。実体がない。
その人が悪いことだと思っていれば悪いことだということで現実は進行する。
その人が社会不安症害でもOKと思っていれば現実も社会不安障害くらいOKということで進行する。
実体がないっていうのは、裏を返せば、その価値は操れるということなので、社会不安障害に対するネガティブな価値に気づき、その価値を高めていくこと。
受け入れる、とはそういうことなのだろう。