「科学者のように仮説を検証しましょう」という認知行動療法の謳い文句は違うと思う

私は治療を受け始めた頃、認知行動療法とは自分の感じ方を客観的に検証していき客観的な結論に導くものだと思っていた。認知行動療法のセルフヘルプ本などにもそういうことは書いてある。「科学者のように客観的に検証していきましょう」と自分の感じ方、思考パターン、行動パターン、現実の様相について検証してみるよう促し、認知行動療法の世界へと誘う。

しかし、認知行動療法が私の生活の一部となり10年近くが経過した今、認知行動療法をやればやるほど、それは違うのではと思うようになった。というのは、私が認知行動療法で効果を実感するに至るとき、きまって客観的な検証プロセスを経ていない。客観的な検証プロセスを経ているように見せかけて、バイアスのかかった結論にもっていっている。私が認知行動療法をやってうまくいくときは、客観的に物事がどうであったかにかかわらず、いつも意識的に特定の結論へと導いている。

すると

何だこれは。科学的でも客観的でもないじゃん。

そう思うようになってきた。

例えば。

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カズオ・イシグロ『日の名残り』における信頼できない語り手の秘める社会不安障害的なもの

障害名を得る、精神疾患の診断を得るのは、大切な一歩だと思う。自分の抱え続けてきた苦悩は病気だったのだと知ることで、問題を外在化できる。解決・回復へ向かうために役立つ。幼少時から自分だけが他人とは異なっていたあの感じが一気に説明できる。

他方、診断名はどうしても異常のレッテルとなってしまう。いや、正常と異常はゆるやかに繋がっているんだよと言われても、診断名というやつは強力で、否応なく正常と異常を分断する。

私自身、正常と異常は分断されていないと知ってはいる。精神疾患の診断を受けたことはスティグマを背負うのとイコールではないとも知っている。それにもかかわらず、気がつくと社会不安障害(SAD)の人々とそうではない人々の在り様を分断するかのような思考が生じている。

「フツーの人にはSADの苦悩など分からない!」「フツーの人の不安と社会不安障害の不安は異なる!」とか言ってたりする。

そうだね、ある面では異なる。けど、完全に異なるって言えるかな。SADの私とSADではない人々というのは宇宙人と地球人くらい離れた存在なのかい?

自問してみると、瞬間的にYes! と叫びたくなるものの、正直ちょっと自信がない。診断名を掲げて、これが私とお前が異なる理由だ!と、根本的な違いを主張したい気持ちが生じるのだった。診断名に頼れば全ての理由が得られるかのごとく。うん。診断名って強力だ。そうだ。私がたびたび理不尽になるのは診断名のせいだ、と責任転嫁しておこう。

自分が診断名に呑み込まれがちであることに気づくのは難しい。私はカズオ・イシグロの作品を読むとき、そのことに自然と気づく。正常と異常はふたつの異なる世界ではなく、人間の在り方として緩やかに繋がるひとつの世界なのだという認識に戻される。

カズオ・イシグロの代表作のひとつ『日の名残り』は英国貴族の屋敷に執事として長年勤めてきたスティーブンスの自省的語りで構成される。たぶん、多くの健康な読者はこの作品にSADっぽさを見出したりはしないのだろうと思う。もちろん、本文中にスティーブンスはSADなどというキャラクター設定がなされているわけではなく、私が長くSADを患っていたからこそ、スティーブンスの語りにSADっぽさを見出すのであろう。

新たにスティーブンスの主人(屋敷の主)となったアメリカ人のファラディ氏はアメリカ的ジョークを飛ばしスティーブンスを戸惑わせる。スティーブンスは有能な執事として文化の異なる主人のジョークに上手に対応し環境の変化にも適応せんと努める。

そんな日々を語るスティーブンスの言葉は、SADっぽさ満載なのだった。アメリカ的ジョークを期待されるファラディ氏との次回の会話場面を予期しては延々と思い悩んだり、過去の会話場面における自分の振る舞いを延々と回想しては反省したり…

(以下本文中引用は土屋政雄訳) “カズオ・イシグロ『日の名残り』における信頼できない語り手の秘める社会不安障害的なもの” の続きを読む

「自分のために誰かに頼むのが嫌いだ!」の思考記録

私は人に頼むという行為が嫌いである。

具体的に言うと、自分の事情のために誰かに「これをやってください」と頼むのが嫌いだ。人に何かを言うのはOKである。たとえば、上の立場の人に生意気なことを言うのは平気だったりする。意見を申し上げて嫌われるのも平気だったりする。それなのに、自分の困りごとを他人に解決してもらうために話しかけ頼みごとをするのは嫌だ。

別件について頼む場合はOKである。自分のことでなければ。たとえば、「あの、すみません、ある方が今困っておりまして、あなたがあることをやってくだされば、その方は助かるのですが、お願いできませんか」と頼むのは難なくできる。躊躇すらしない。

が、困っている人が自分となると私の頭の中で事態は完全に別の方向を辿る。自分が困難を打破するために、誰かに事情を話して私を助けてくださいとお願いする。それは嫌だ。絶対に嫌だ。

そういうふうなので、一度困ってしまうと出口がない。考え込み、躊躇し、先延ばしにする。その間、なんとかして自分ひとりで解決できないものかとあれこれとひとり調査を重ねる。延々と誰かに頼まなくても済む方法が見つかるのを願いつつ、ひとり沈黙のまま、こそこそと作業を進める。それで解決する場合もある。なにしろ、そんな状態になった私はとにかくしつこいのだ。けれども、解決しない場合もある。

今回の状況は、頼まねば解決しない状況だった。認めねばならなかった。しかも、期日が迫っていた。さらに悪いことには、私が今誰かに頼まなければ、ある件である人が私のために着々と準備を進めてきた努力が無駄になるという状況だ。頼まねばならない。ああ、嫌だ。だがやらねばならない。

この件は、私が個人的によく知らない教授に頼まねばならないだろう、というところまで私の嫌がる思考は辿り着いた。

私がおかしいのだとは気づいていた。ここにこそ私の根強い信念がある。先送りにして、自分を袋小路に追い詰めてしまう、思考の悪循環がある。そんな匂いがした。そこで、思考記録表7コラムの形式に従い、今回の私の様子を綴ってみようと思った。 “「自分のために誰かに頼むのが嫌いだ!」の思考記録” の続きを読む

このままでは何も貢献できない

プレゼンをすることになった大学の研究者からメールがきた。

似た分野のことをやっていて、前もって個人的に会いたいということだ。了承して会ってみることにした。

その人はスーさんという。

私が以前使ったのと同じフレームワークを使って研究を進めているのだが、うまくいかないと言う。どうしたらよいのか、困り果てているのだが...ということだ。 “このままでは何も貢献できない” の続きを読む