私のSAD的観点から見ると理不尽な世間一般の信念とSADの人々に向けられがちな誤解

今日はSADの人々が受けがちな誤解についてまとめてみた。

相手の目を見ない奴は嘘をついている

視線を合わせるのが怖い人々もいます。

視線を合わせるのが怖いのは悪いことをしているからだろう、ですか?

ちょっと待ってください。悪いことをしていたり、嘘をつく人は相手と目を合わせないとか目を合わせるのを怖がるいう根拠はあるのでしょうか。

すたっぷ事件のおぼちゃんや、あれこれ世間を賑わせる詐欺師の多くは、相手の目をじっと誠実な感じで見つめて、信用を得て、騙すけれど、視線を合わせるのが怖い様子はないですよね。まあ、視線を合わせるのが怖い嘘つきもいるかもしれない。それでも、視線を合わせるか否かが嘘つきの指標とはならないんじゃないかな。

世の中は多様な特性の人々で構成されており、中には視線恐怖に苦しむ人々もいます。誰かがあなたと視線を合わせられなかったとしても、その人があなたに嘘をつこうとしているとは限らないので、安心してください。

挨拶のできない子どもは親の躾が悪い

世界中の子どもたちすべてが声を出すことに困難がないという前提なら、挨拶できないのは悪い子と考えられるかもしれない。子どもが挨拶できないのは、常に意図的であり悪意の象徴であると考えられるかもしれない。

けど、世の中には、声を出すのが困難な子どもたちがいるのです。身体的に声を出せない障害を持つ子どももいれば、場面緘黙症のように精神的に声を出すのが困難な子どもたちもいます。

すると挨拶ができない子どもに出くわしたとしても、必ずしもあなたに悪意があるのでも、その子の親の躾を反映しているということにもなりません。

それにしても、その子どものみを悪い子だと決めつけるに留まらず、その子の親まで悪い親だと決めつけるほどの根拠はあるのでしょうか。ひとりの子どもがあなたに挨拶ができなかった。それだけの事実から、その子の家庭までに範囲を広げてジャッジし弾劾するほうが、問題を多分に含む決めつけ行為ではないでしょうか。

私は一応挨拶は小さな声なら言えることが多かったものの、場面緘黙症を患っていて、言葉を口頭で発したい肝心なときに声が出せない、そんなことが多々あった。それを近所のお母さんたちが、あのおうちの親はダメ親に違いないと過大に否定的にジャッジして面白がったため、私の母はいわれのない罪を着せられ、追い詰められていった。自分の母親が自分の声が出ないせいで責められ苦しむのを見るのは、声が出せないという不自由の上にさらに降りかかった不幸であり、子供の頃の私にとってとてもつらいことだった。

子どもが挨拶できないのは、あなたが嫌いだとは限らないので安心してください。その子の親の育児に問題があるとは限らないので安心してください。

 

声の小さい奴は自信がない

声が小さいから言っている内容に自信がないとは限りません。

内容に自信があっても、声の小さい奴はいます。

けど、聞こえないと困りますよね。もうちょっと大きな声で言ってくれないかな、聞こえなかったからもう一度言ってくれないかな、と頼んだり、場合によってはマイクロフォンをつけてもらえば、解決するのですから、あいつは自分の言っている内容に自信がないのだ、などと憤慨する必要はありません。

発言者に自信があるかないか、それはその人の内部で生じる種のことであり、あなたに知り得る範囲を超えていますから、決めつける必要も妥当性もないので、安心してください。

 

そわそわしてぎこちない奴は悪いことをしている

そわそわしている人がいても、悪いことを企んでいるとは限りません。

ぎこちない人がいても、悪い人ではないかもしれません。

人前で不安が生じやすい人々というのはどこにも一定数いるのです。

プロの泥棒は目立ちません。そわそわしていたり、ぎこちなかったりして、わざわざ目立とうとすることもないでしょう。安心してください。


もちろん、社会不安障害の人々も周囲の人々の不要に不快感を与えないよう気をつける、と言うか、自己流に気をつけてもさらにこわばったりぎこちなくなったり声が出なくなったりするのだが、無理のない範囲で治療を継続していくのは社会の構成員として大切なことだろう。けれども、この溝を埋めるべきなのは100%障害者側なのだろうか。社会的なコミュニケーションに困難を抱える障害のない人々は何ひとつ譲る点はないのだろうか。何か事情があるのかもしれないと思ってみることすらできないだろうか。

こういう場合は、こう振る舞うべきだ。私の思うあるべき姿に従った行動を取れない人は、悪意のある人だ。

そんな根拠のない信念を抱えているのも生きづらくないだろうか。信念を緩めれば、他人に理不尽な烙印を押し不幸を増大するという過ちを犯すこともなければ、自分も無駄に憤慨することもなく、もっと楽に生きられるかもしれない。

社会規範が細分化され、しかも厳しくその社会規範を守ろうとする社会では、親も子も、職場の成員も、常に社会規範破りの烙印を押されることを怖れ、互いにプレッシャーをかけ合い、理不尽な信念を抱き、ジャッジし、決めつけ傷つけ合う。

当たり前のごとく繰り広げられる社会規範を、誰にでも使えるはずだと行使する前に、立ち止まり、疑ってみる。すると根拠に欠ける点、理不尽なところや不合理な面が見えてくる。互いを即座にジャッジするのをやめ、他人への評価を下すのを保留するスタンスが、健康な人々を含む多様な特性を有する人々が無理なく平和に暮らしていくためのベースになる。昨今巷で盛んに叫ばれている多様性の尊重とはそういうことだと私は思っている。

投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.