強さとは弱さを見せられるようになること

精神疾患というのは、多くの場合、見えない病気なので、言わなければ分からない。

本人も言いたくないので、ひたすら隠し、表面的にはできる限り明るく振る舞い続ける。

明るい自分と暗い自分の隔たりが、さらに広がり、深まり、その溝がどうにも埋められそうもなくなったことを本人が感知する頃には、心はひどく壊れてしまっている。

二年前の私はちょうどそんな状態だった。恐怖と予期不安で毎日震えていた。過呼吸になると、急いで人のいないところに走っていき、ひとりであることを確認すると、恐怖に震えながら泣いていた。

ここまで悪化した社会不安障害が快癒するなんて日は、一生来ないだろうと思っていた。

 

その頃には夢にすら見なかったほど元気になった今、一体、なぜあそこまで追い詰められてしまったのだろうかと考える。

時間をかけて思考の癖をほどいていき、それらがどう絡まっていたのかが明らかになってきた。

その絡まりは思い込みだった。

震えるのは悪いこと。精神疾患になるのは弱い証拠。暗いなんて許せない。泣いてはいけない。

それらの思い込みの背後には、こんな思い込みがあった。

常に明るく堂々と振る舞わなければならない。笑顔で懸命に頑張り、周りの人々の期待に応え、成功しなければなけない。

その表裏一体の思い込みは、幼少期から摺りこまれていくうちに、さらにさらに強固になっていき、少しでも緊張を感じると、暴れるようになっていった。

それが自動思考だった。

震えてはいけない。しっかり任務を全うしろ。こんな簡単なこともできないなんて、生きる資格などない。

最近になってよく思う。あの自動思考は、私自身の声ではなかったのだと。

あれは周囲の声だった。私が幼いときから聞いてきた周囲の声だった。

洗脳 という言葉を使うのは大袈裟だろうか。

あの自動思考の声が唯一無二のものではなく、自分のものですらなかったと知ったとき、私の心はかなり自由になれた。

 

「長い間、ふたつの全く違う人生を歩んできたように思います。皆が見ている人生と自分だけが知っている人生です」

コメディアンであるケビンさんが自身の鬱病をカミングアウトするTEDトークが9月に公開された。

これを聴いて、私はこれは自分がSADを抱えてきた人生のことを語っているのではと思うほど共感した。聴くたびに、新たな感動があり、力をもらい、そして癒される。

 

常に楽しそうなことを話し、表面的な成功を獲得することを善とする社会は、心を病むことを悪とする。

苦しいのに楽しいと言い、泣きたいのに笑う。

苦しむこと、心を病むことを罪だと思っているから、言わないし、自分でも認めない。これが精神疾患にまつわるスティグマ(疾患を穢れ・罪とみなすこと)と呼ばれてているもの。

スティグマがあるから、病んでいく。底なしに病んでいく。

社会不安障害はこのスティグマが大きく関連する病だと私は思う。

震えることへの罪悪感があるから、少しの緊張を感じると、ものすごい勢いで焦り、不安発作に陥る。

社会では何でも堂々とこなすことが求められているのだと現実として認識しているので、社会的場面を回避してしまうと、堂々とやれなかったことに罪を感じ、さらに深く苦しむ。

だから罪悪感が消えると、症状も消える。震えるのは悪いことではない。とちりながら喋るのは悪いことではない。見事で感心させるようなことを言わないのは悪いことではない。

 

若干19歳のケビンさんは心を患った経験から世界にこう訴える:

自分の心を欺き、苦しんでいることを隠し、明るい成功者である自分を目指すことをやめよう。そんなことを続けていたら、見せかけの華麗さのみを評価する価値感が、社会において一層強固なものとなり、多くの人が病んでしまう。

その代わりに、自分にも人にも正直になって、苦しいことや辛いことを伝え合うことを始めよう。一人ひとりがそうすれば、自分らしく生きることができる世界を構築していくことができるだろう。

精神を病んだことを語り、その逆境から乗り越えていくことが評価される。そんな世界を目指そう。

 

それを聞いたとき私は、自分の心に纏わりついていた最後の絡まりが消えたような思いがした。

これまで苦しんできた闇から、抜け出すことができたということ。そのことを評価していい。

そうしたら、もうこれでいいんだ、という気持ちになれた。これからの人生は、たぶん、この闘病に比べたら、オマケみたいなものだろうから、気楽に自分らしく生きていけば、それでいいんだ。

今日もそんな思いを強めようと癒されに行ってみたら、嬉しいことに新たに日本語字幕が付けられていたので、このトークをブログ記事で紹介しておこうと思った。ケビンさんの言葉に力をもらえる人もいるかもしれない。

 

以下はトークの日本語訳一部抜粋(少し日本語訳を変えてあります)とリンクになります。


 

正直に言うと、ここに立ってお話しするのには勇気がいりました。

私のうわべだけの人生を見れば、そんなことは想像だにしなかったでしょう。

長い間、私はふたつの全く異なる人生を生きてきました。お互いの人生が常に片方を恐れていました。周りの人達に本当の自分を知られるのが怖かったのです。

笑顔の下にはいつも苦しみがあって、明るさの陰には暗い自分がいました。

本当の自分、正直になること、自分の弱さが怖かったのです。

その恐怖が、私を隅に追い詰めて、どこにも行き場がなくなりました。しまいには、出口は死ぬことしかないと思いました。

腕を骨折すれば、ギブスにメッセージを書いてもらえる。

ところが、鬱だと告白すれば、皆が逃げていく。

私たちは身体の病気には非常に寛容ですが、精神となると違います。

無知が、鬱や心の病気を受け入れない世界を形成しています。

知らないふりをして、見ないふりをして、先延ばしにしている。

どんな問題でも解決の一歩は、問題があると認めること。

まだそれができていない。だからこそ、私から、そして皆さんから、始めましょう。

苦しんでいる人々、影に隠れている人達が始めましょう。

立ち上がって沈黙を破りましょう。

信じるもののために勇気を出しましょう。

なぜなら、私が学んだことがひとつあるなら、それは他者を理解しない社会を構築してはいけないということだからです。

自分を受け入れ、自分らしく生きることのできる世界が必要です。

鬱を患っていても大丈夫ですから、苦しんでいる人はそう知っていてほしい。

あなたは病んでいるけれど、弱くはない。

問題はあるけれど、あなた自身が問題なのではない。

なぜなら、他人への恐怖、他人からの嘲笑、批判、悪いイメージを乗り越えられたら、

鬱の正体が分かりますよ。

それは人生の一部なんです。それだけです。

私は、鬱によって陥った人生で、大嫌いな部分があると同時に、多くの面でこの病気に感謝しています。

もちろん、病で谷底に転落しましたが、山頂を見るためには必要でした。

暗闇に追い込まれましたが、光を見るためには必要でした。

心の痛みは、希望を持つこと、自分を信頼すること、他者を信頼すること、周りの人が期待する自分ではなく、ありのままの自分でいることを教えてくれました。

私の信じる世界では、光を抱くことは暗闇を無視することを意味しません。

逆境を無視するのではなく、それを乗り越える力で評価される世界です。

私が信じる世界では、誰かの目を見て、「地獄を体験している」と話したら、見つめ返して「私もだ」と言ってくれる。これで良いのです。鬱病でも良いのですから。

私たちは人間ですから、悶えたり、苦しんだりします。

真の強さとは、決して弱さを見せないことだと思う人がいたら、それは間違っていると伝えたい。真の強さとは、その反対で、弱さを見せることができることなのです。

私たちは人間です。問題を抱えています。完璧な人などいない。それで良いのです。

独りで闘っている問題の唯一の解決方法は、皆で結束して一緒になって闘い、無知を克服し、タブーを取り払うことです。真実と向き合い、話し合いましょう。私はそれができると信じています。

投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.