喋れなかったことについて喋れるようになる

少し前のことだ。

そのとき私は、喋れなかったこと、不安障害が悪化し長いこと瀕死の状態であったこと、そんなことについて、ピアの方々にお話ししていた。話し始めは大丈夫だった。落ち着いて話していた。

場面緘黙症だったときのことを語り、中高生の頃に社交場面での震えがひどくなってきたことを語り始めたあたりから、ひどく苦しくなり、少し休まなければならなかった。苦しくて、詳しいことはお話しできなかった。

何が苦しかったのだろうか。苦痛の中にいた頃の経験に触れたからだろうか。それとも、喋り続けていて、不安に襲われたのか。あるいは、両方か。

何かに体を抑えつけられ、固まっていくような、周囲から自分の存在が引き離されて閉じ込められるような、そんな苦しさだった。

それは、場面緘黙のときのあの感じでもあるし、不安が生じるときのあの感じとも共通している。

場面緘黙の頃のことや、SADの頃のことを語っていて、あの感じが思い出され触発され、不安が生じた。そんな気がする。

だいたいあんな苦しいときのことを語って苦しくないわけがないだろう。

苦しい経験を経て、苦しかったことを語り、苦しみが蘇ると、なんで不安になったんだろうとそのことで不安になる。喋れなかったことについて、どれだけ上手に喋れたかを気にする。そんな不安が自動的に生じる。

苦しいにきまっている。平静でいられるわけがない。

私は、喋れなかったことについて喋れるようになったことを喜びたい。祝いたい。

投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.