自分のためのカミングアウト

社会不安障害であることを周囲の人に伝えておくことについて過去に何度か書いてきたが、もちろん、それは人に言えば治るということではない。障害が障害でなくなるためには周囲の人々の理解が必要となることがある。病を抱えつつも生きやすくするための工夫のひとつでもある。

カミングアウトするというのは、あくまでも本人の意思により行われるものであり、よってその自由は最大限に尊重されるべきであろう。

しかしこれはとてもデリケートな行為でもある。

伝え方にも伝える時期にも伝える理由にも、これといった決まりもない。その人の置かれた社会環境や状況により十人十色であり、状況等の総合的な判断が大切となってくるのだろう。だから、一概に、こうすればいい というやり方はなく、基本的には、伝えたければ伝えてみればいいし、そうでないなら伝えないほうがいい。

その判断基準はひとりひとりが独自に持つものだ。

私自身が大切だと思う基準はふたつある。

  • 自分の状態
  • 相手との関係

自分の状態とは、本当に伝えたいと思っているのかということ。是非知っておいてほしいと考えているのか。

伝える対象、相手とは信頼関係が築けているのかということ。

その二点が確かな場合、さらに具体的に

自分がどういう状態であるときに

誰に

どういう方法(メディア、コンテクスト)で伝えるか

を考えていくとよいのではと思う。

これらのことを充分に吟味した上で判断したことではないのなら、現時点ではやめておいたほうが良い。

 

自分の状態

社会不安障害であるという事実を自分自身が受け入れている状態であることは大前提だ。

社会不安障害であることを受け入れていて、社会不安障害だけど別にいいと思う、悪いことではないと心から思えるようになっていること。これは認知行動療法を受けると初期にやっていく認知の再構成、これがうまく進み、行動療法・曝露療法にステップアップできる時期の状態とも重なるのかもしれない。

自分自身が病気を受け入れていない段階で無理に伝えようとすれば、それはひどく重い感じとなり相手も戸惑ってしまう。

さらに大切だと思うのは、「社会不安障害って何?」と聞かれたときに、即座に自分の言葉で相手が納得できるような説明ができる状態であること。社会不安障害とはどのような疾患か。そして、一般的な社会不安障害の説明のみにとどまらず、自分にとって社会不安障害とは何であったのか。これからその病とどう付き合っていこうと考えているのか。

これらが自分の言葉で伝えられない状態で、「私は社会不安障害なのだ」と闇雲に広めたところで、その言葉は意味を持たない。

そして最悪の場合のことを考えてみる。伝えた相手が病気のことであなたを軽蔑し始めたとする。

それでもいい。相手が裏切ったとしても、構わない。自分の人生のアクセス権は自分にしかない。周りにどう思われたって、動じない。

そんな確信の持てる状態に達しているのなら、まさに何も恐れるものはないでしょう。

 

相手

社会不安障害であることを自分自身が充分に受け入れられていない状態であっても、良好な関係にある家族など、相手が自分に揺るぎない愛情を注いでいることが確かなら、伝えておけば闘病を支えてくれるだろう。

他人であっても、揺らぐことのない信頼関係が既に築けている相手なら伝えてもいいだろう。

反対に、相手が宿敵であったり、信頼関係などないのに伝えてしまったら、面白がったり利用したりしようとする可能性もある。したがって、人間関係の判断は難しく、この人に伝えても大丈夫かなと不安になるような相手には伝えないほうが無難だろう。

こんなことは当たり前のことで書く必要もないかもしれないが、毎日噂話に明け暮れているような低俗な人達に伝えてみたところで、噂のネタとして消費されるだけである。

互いに親しくなくても、信頼できる相手なら、その関係が一方的な敬意で成り立っていたとしても、うまくいくのではと思う。

例えば、自分が相手に敬意を抱いている場合。相手がモラルの高い人物であり、差別や偏見といった社会問題にも造詣が深く、精神疾患にも理解があるに違いない。信頼できる相手である場合。

逆に、相手が自分に敬意を抱いていると知っている場合。社会不安障害であることを伝えれば、そうか、社会不安障害というのは立派な人がかかる疾患なんだなというふうに、疾患に対してポジティブイメージを植え付けることもできる。

こういった相手に対して伝えることで、不利益が生じる危険性は小さく、その後の闘病生活にも理解を示してくれる可能性のほうが大きいと思われる。

 

メディア・コンテクスト

私は頻繁に会えるような相手なら、面と向かって伝えておく。それは相手が私の表情を見ることができるからだ。

社会不安障害 という病名をメールで目にしたり、電話で聞いたりしたら、相手は、

なんだって。 よく分からないが、深刻そうな病名だ... 大丈夫か?!

と心配してしまうかもしれない。

私はしっかりとした面持ちで伝えるようにしている。そうすると、私が病気を受け入れていることも表情で伝わり、相手も安心すると思うからだ。

コンテクストとしては、どうしてもあの人には伝えたいという気持ちが強まってしまったとしても、それだけのことで人を呼び出したりするのは、申し訳ないので、別の用事で会ったときなどに、会話が健康面のことに及んだりしたら、自然に会話に取り入れるようにしている。焦らず待っていれば、ちょうどよいチャンスは訪れるものです。

そのうち、私もそうだよ、とか、それ、わかる、私もそうかもしれない、私は別の精神疾患があって… と言ってくれる人達が結構な数で見つかる。そうすると、それまでの信頼関係以上の絆が築けてきます。

ネット上やSNS上で実名顔写真付きで世界中に一気に伝えたい!と言う人がいたら、それは本人の自由であり、止めることはできない。が、実際のところ、一般人・無名人にとって、そこには利点よりも危険のほうが大きいのではないかと思う。

手軽なメディアに不用意な形で乗せてしまえば、情報はひとり歩きしていって、世間の低俗な好奇心の餌食となり、予測できないような取り返しのつかない事態が生じるかもしれない。さらには、周りの人達にも迷惑が及ぶかもしれない。

それよりも、まずは、是非病気のことを知っていてほしいと思う自分にとって大切な人に、面と向かって伝えられるような心の状態になることを目指す。

重ねて言うが、闇雲に伝えれば治るということではない。

もし社会に社会不安障害のことを周知させるという目的の上で世界中に叫びたいと思うのなら、それは立派だ。が、順番を考えたい。まず自分が病気と向き合うこと。そしてまた、自分の心の状態を見つめてみたい。自分の病の認知度を上げたいという気持ちは、どこからきているのか。病に人生が囚われているためか。フラストレーションのためか。果ては何か重要なことから目を逸らしているのか。自分が治療を受けることが先なのではないか。そんな可能性も考えてみたい。

効率が悪いように思えても、自分の周囲の人に社会不安障害というもののことをゆっくりと、面と向かって伝えながら、人生をしっかり歩んでいく。

その結果として、あなたは何らかの分野で世界の頂点に立つかもしれない。

そうなれば、自分の業績、名、そして社会不安障害を患ったことが、自然と世界に伝わる。メディアの性質上の拡散しやすさに依存するのではなく、自分の業績で築き上げた影響力により広める。それをやったのが海外を中心にSADのことを語る著名人である。


私は長年誰にも言えなかった。社会不安障害とは大変深刻な心の病で、恥ずべきことで、汚点であり、絶対に人に知られてはいけないことだと疑いもしなかったからだ。

治療を受け、社会不安障害を患っているという事実をネガティブに捉えなくなった頃から、機会があれば人に伝えている。

誰ひとりそれをバカにしたりしない。皆さん共感してくださり、常に気にかけてくださるような方々も多く、いや結構普通以上に元気なんだけどと恐縮することもある。

ここには信頼関係がある。それを結果的に実感させてくれたこの病に、今では感謝している。


実際の生活においては、病気のことを伝える必要性が生じてくることもある。

社会不安障害が原因で失敗しそうな場面が想定されるなら、もしそれが可能であれば、前もって関係者に自然なコンテクストで伝えられるとよいだろう。

私は修士課程にいたとき、プレゼンを回避してしまった。

今思うと、前もって先生に伝えてしまえばよかった。社会不安障害であることを、恥じて、黙って、すごい予期不安に襲われ、なんだかんだ言い訳して回避する。その後のあの自己嫌悪。回避するごとに、自己嫌悪は深まり、自分の人格がどこまでも堕ちていくあの感覚。

課題のレポートが誉められたときなどを機会に、先生の研究室にでも寄って、よいコンテクストで社会不安障害のことを自然に伝えておけばよかった。学期末のプレゼンが不安であることも伝えられたかもしれない。先生はプレゼンの前に治療をきちんと受けておくように勧めてくれたかもしれないし、それが時間的に無理なら、特別に別の課題を用意してくれたかもしれない。

そして、こういった場合も、プレゼン直前になってから突然社会不安障害であることを先生に伝えても、それは言い訳にしか聞こえないかもしれないし、ある程度、前もって自然によいコンテクストの中で伝えることが大切であったのだろう。

でも、そんな合理的な考えは当時の私に浮かばず、回避→自己嫌悪の繰り返しだった。

思い起こすと、不安場面に際して、そのときになって、いや、その直後に、先生に伝えた友人がいた。

震えてしまう人はたくさんいるのだ。そして、それを伝えられる人もたくさんいる。

その友人は学部生時代の同級生で、大変優秀であった。その集中力といい、観察眼の鋭さといい、メンタル面の不安定さといい、あらゆる意味で非凡であった。

 

ある日学期末試験のときのことだった。

試験が終わり、友人は震えていた。

「手が震えてしまい答案が書けなかった」近くにいた私にそう言って、友人は教壇で解答用紙を抱えて帰ろうとする先生のもとに一直線に向かって行きました。

「先生、手が震えてしまって答案が書けませんでした」そう震えながら言って、先生に激しく震え続ける手を見せた。「試験勉強をがんばったのに、答えが分かっていたのに、震えてしまいひとつも回答が書けませんでした」声も震えていた。「こんな病気になってしまい、神経のことで治療を受けていますが、もう試験を受けることすらまともにできないのです」

そう言って、ぽろぽろと涙を流して泣いてしまった。

目の前で震えてしまっているのだから、これほど確かで明らかなことはない。先生は「それは大変でしたね。心配なさらずに、今日は休んでください。別の日にあなただけのために試験をやりましょう」

結果として、友人は再度試験を受け、無事に単位を取得した。

適切なときに、きちんと伝えることは大切だ。震えようが、不安に襲われようが、必要な真実を伝える。そうすれば理解し合える。周囲の理解が得られれば大抵のことはこなせる。恐れるものはない。震えるのを見られてもいい。それを伝えていい。この友人は私の遥か前を走っていた。

このような場合、本人に人に伝える準備ができているかどうかなどは関係ない。そのときに、震えたままで、伝えなければ、もうチャンスは取り戻せないからだ。震えがおさまってから先生に伝えても、ほんとに? って感じになってしまう。

そのあたりのことを、震えつつも、総合的に的確に判断できるというのがすごいなと思う。

だから、やはり社会不安障害であるかどうかよりも、的確に判断するスキルを育むのは病みつつも生きていくために必要なのだ。自分の障害を現実の生活において障害ではなくなるようにしていく。そんな処世術が左右する範囲は大きい。

作成者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.