人はひとりで生きるのではない

一年間、自分の認知と取り組み続けてきて思うことがある。社会不安障害と向き合うということは、まずは自分自身との闘いから始まって、そこから自分の外の世界、対人関係や社会的場面とのバランスのとり方に広げていくということなんだということ。

前回書いたように、自分の外の世界と壁を隔ててしまっていたのを、まず自分自身が変わっていくことで、外との関係を変えていき、それまで緊迫していた自分と外界との関係を緩めていく。

「外の世界」とか、「対人場面」とか表現していたことにすら、違和感を感じ始めるくらいに。

自己 対 他者 の関係を脱して、自己と他者が重なっていくようにする。ひとつになれるよう近づけていく。もちろん、自分から歩み寄らないと近づけない。だから、自分との闘いから始まるのだ。

自己と他者との壁を取り払い、ひとつに近づいたとき、ひとりでひたすら考えて思いついたものよりも画期的なものが生まれる。新しいものが生まれる。

“Connecting the dots(点と点をつなげる).” という故スティーブ・ジョブズ氏の有名な表現がある。自分の頭の中にしまっておいた、一見関係のなさそうな過去の経験が不思議と重なるときがあり、そこに画期的なひらめきが生まれる。

そういったことが複数の人間の頭脳の間でも起こる。

自分の経験してきたことを、他の人の意識に乗っけていくようにして、それらがなにかの拍子にうまく重なるとき、自分の頭の中だけでは起こり得ないような、予想すらできなかった画期的なことが始まる。そもそも人知とはそういうふうにして発展していく。

ひとりの頭の中にあるdotsは限られた数しかないけど、人数が増えるほどdotsの数は増えていく。だから面白いものが生まれる確率も上がる。みんなでdotsを投げていく。空中でそれらが重なって思いがけず新しいものが生まれる。

By: jude hill

学会の発表だって、がちがちに固めて結論までもっていくのはいけない。ある程度、緩めておいて、発表を聞いている人たちの意識の上に、あれこれ乗っけていくような、問題提起していくような感覚で進行させていけばいい。もしかしたら、そこに面白いものが生まれるかもしれない。それを目指す。

「これはワタクシの発表!」という感じで取り組んではいけない。ひとりよがりのひとり語り。

よく学校の授業で、先生が語り続けているのに、学生はつまらなそうで居眠りしちゃってたりする。それは先生がひとりよがりに語っているからであって、学生のせいではない。先生が学生の知的好奇心を喚起させるようなもの(dots)をなにひとつ投げかけないからだ。「眠ってるんじゃない!」と怒る先生に、もーちょっと面白い授業しろよ!と言いたくなったことありませんか? 私は何度もあります。それでいて、自分が話すときにはひとりよがりになってしまっていた。結論までしっかりがっちり私一人の手で導かなきゃいけないとひとりで抱え込み、震えていた。

いいのにね。

ああかもしれない。こうかもしれない。もしかしたら、ぜーんぜん、違うところのものが影響しているのかもしれない。私が過去にやったときはああなって、今回やったときはこうなったけど、どうなんだろね。どう思う?

その程度に緩めて、発表の視点があちらへ行ったり、こちらへ向かったり、いろんな側面からみんなで探っていけるような自由な動きに満ちているのがいい。自分なりの結論を得ていたとしても、強調しない、あるいは、まったく出さない。

そこには発表者の意思が関わる範囲は小さく、発表者の言葉はクエスチョンマークがあちらこちらに漂い、聴衆は自ずとそのクエスチョンマークを掴んでいこうとする。参加してくれる。

学会発表の成功の度合いは、聞く人の心にどれだけのインスピレーションを与えたかに比例する。インスピレーションを与えるというのは、実はものすごく容易なことで、発表内容の責任を譲渡していって、問題提起していくことで達成できる。

そうそう、いいんだよ。責任を譲渡していく。それは無責任なことではないんだよ。みんなで協力して創っていけばいいんだから。

無理して努力してがっちりと結論出してみたところで、10年と経たぬうちに、その結論がまったく間違ったものであることが判明する。そんなことばっかりじゃん。ほんと、そんなことばっかりなのに、これが唯一の真理である!みたいに提示するのは、全くもって、それこそ無責任だよ。


こういうふうに、今の私の認知は1年ちょっと前の自分の認知と180度変わっています。半年前の認知ともずいぶんと異なっている。

もっと変わってくるかもしれない。

なんとなく、まだまだこれは始まりなのだという気がする。これから何年もかけて、自分の認知と向き合う旅を続けていくのだと思う。

始まったばかりなのだ。

人はひとりで生きるのではない。

と古今東西、幾度も語られてきたし、私も何度もそれを聞いてきた。その意味が分かっていると思っていた。

その本当の意味が、実は自分は全然分かっていなかったのだと知ったのは、ほんの最近のこと。

それは未だに無知の知といった状態で、これからそのことについて学んでいくのだといった状態。

こうやって認知と向き合ってきたことで、ゆっくりとではあっても、確かに社会不安障害の症状が溶けてきた。生きること全般にわたり、徐々に楽になってきました。もっとたくさんのことが見えるようになってきた。

まだまだ、未熟で、学ぶことがたくさんある。それでも、やっていけるという確信に近いものがある。やっていきたいという思いがある。

これからも、長い時をかけて、ゆっくりと人生と仲良くなれればいい。

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投稿者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.