旅行中に体験した様々な不安場面のこと


旅行で海へ向かう途中ワイナリーに寄った。

ところで、ワイナリーとは結構な不安場面である。

考えてもみてほしい。音も立てずに忍び寄り、「どのワインをお試しになりますか」などと呟いてくるワイナリー職員。

ポーズを決めつつワイングラスにほんのちょびっと注ぎ、その場で飲めと言う。注視された状態で飲めと言う。

そして、ティスティングのやり方に従わなければならない。まずは香りを愉しみ、それから飲む。さらには、飲まなくてもいいよ、などと言われるのだ。酔ってしまわないように、このキラキラ輝くシルバーのバケツに吐きだしてしまってもよござんすよ、と。

そんなの嫌に決まってるじゃあないか。人前で吐き出すなんて。

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ようやく飲むと、さらに注視を受ける。「いかがでござんすか」みたいに。

なんだか、ただ「おいしいね」とは言えない雰囲気。ぴんっと緊迫した空気。なんと言おう。アロマがどうとか言えっての?

 

それでもワイナリーに寄ることに決めたのは、なんとなくそうしたほうが自分のためによいと思ったからで、それは父のよく言う家訓のごときものも関係している。

父曰く、「常に世界で最高のものに触れるよう努めるのだ。なんでもだ。最高のものを知る。それが自らが卓越した仕事をするための一歩となるのだ」

そう言っては、父は最高の日本酒を飲んだものだ。

 

さて、オーストラリアのハンター地方のワイン。世界一ではないかもしれない。それでもユニークなワインを産出している地方であり、最高に近いワインに出会える可能性は高い。

それは自分が良い仕事をするための第一歩となるかもしれない。だから行ってみよう。そう思った。

なんだそりゃ。親子して飲みたいだけじゃないの。

それもある。あるけど、この家訓は確かに一理あるのではないか。不安場面については放置しておいてもよいものと、挑んでみたほうがよいものがある。様々なチャンスを秘めたことや自己開発につながる可能性のあることについては回避せずに挑む。そうでないものは放置する。学会やワイナリーには行く。美容院には行かない。


そういうわけで、不安場面を前にして、認知行動療法で学んだようにまっさきに心に浮かぶ不安を言語化していく。さらにその不安への反論を出していく。

 

ワイナリーの人達は客のことを注視している → 客のことを注視していない → 客が飲んでみてくれて、満足してくれて、一本でも買ってくれれば、それでバンザイ

アロマがなんだとか言わなきゃいけない → 言わなくていい → ただそこにいてワインを愉しめばいい → アロマがなんだとか言うのは相手の仕事だしね

 

心の準備が整い、いざワイナリーへ。

ワイナリーに入る途端に、高飛車モードに入る。そうだ。意識的に高飛車になるのだ。ちなみに薬は一粒も飲んでいない。

客は数人。私たちの他は老夫婦が一組。ティスティングができるカウンターにはまだ誰も近づかない。ティスティング職員のお兄さんはとっても暇そう。

いやあ、このワイナリーは、私に来てもらえて、ラッキーな奴だ。こうなったら、もう、私はここにいるだけでいいね。何も気のきいたことなど言わなくていいね。平常心で自然体であればいい。まったく、もったいないくらいだよ。と自分に言い聞かせてみると、なぜか、極度にイイ感じになってきてしまい、その勢いでスタスタとカウンターへ。

もちろん、すぐにお兄さんが足音すら立てずに近付いてくる。

「どのワインをお試しになりますか」

なんだって? そんなの私の知ったこっちゃない! 「なにがおすすめですか」と質問返し。

「実はすべておいしいんですけどね」とお兄さんはにやり。

ほら、やっぱり。営業口調ではないか。言わせておけばよい。

「うちは Shiraz が有名でしてね」とお兄さんはなめらかな口調になめらかな動作をマッチさせてワインを注いでくれる。

「It’s nice (オイシイネ).」 これしか言いわない。これしか言わないことに決めてたのだ。

そのとき背後で不気味な気配が。

旦那だった。

この人はシャイなので、自分からティスティングカウンターに進んで行ったりしない。妻が飲んでいるので便乗しようと付いて来たのだ。しかし運転者なので飲めないね。あのシルバーバケツに吐きだすしかない。運転時々替ってあげるよって言ったのに、やらせてくれないのだから仕方がない。

お兄さんは旦那にもワインを注ぎ、「どちらからおいでですか」

旦那に受け答えさせよう。私はそう決めた。だって、私はここにいるだけでいいんだもん。こういう仕事は妻の試飲に便乗してきた旦那がやって当然。そのくらいしか出来ることなんてないんだから。ああ、あと運転くらいかな。

ところが旦那は私が答えるだろうと期待していたようで、なかなか答えない。束の間の間があき、旦那は諦めて答える。日本に住んでいたこともある、などと自慢げに付け加えていた。

 

「このワインはですね、他の店には出してないんですよ。このワイナリーでしか買えないんです」

レアものときたか! 是非今この場で買って行ってくださいよってことですね。お兄さんの営業口調はさらになめらかに絶好調。「どうです。豊かなアロマとフルーティーな舌触りが奥深く...」

出た! アロマ云々。ほら、やっぱり、アロマがなんだとか言うのはワイナリー職員の職人芸なのだ。客はワイナリー職員の豊かなワインボキャブラリーを音楽のように堪能しつつ、なるほどと頷き、黙って飲んでいればいい。ついでに買って行ってあげましょう。バンザイ!

私の出した不安の否定理由は正しかった。それと同時に、明らかになったことは、私が不安にならなければならない理由はなにもないということだ。

 

おや、離れてところに立っていた老夫婦もカウンターに近づいてティスティングモードに入っています。

これはやはりワイナリーのティスティングという場面が多くの人にとって多かれ少なかれシャイになる場面であり、誰かがティスティングを始めるまでは、どうもカウンターに近づきにくいということなのだろう。

そんな場面において、SADもちの私が真っ先にティスティングを始めてしまったというのは不思議なものだ。これも認知行動療法のパワーかもしれない。

こういうことが去年何度かあった。周りの人達はやたらと緊張しているのにSADの私だけが緊張していない。

ずいぶんと奇妙な事態である。みんな、認知行動療法を受けられるといいのにね。SADと認定されないとタダで(保険で)受けられないけどね。普通の人達は損だなあ。

私がフロンティアのごとくティスティングを始めたおかげでみんなが続いてティスティングできたのは素晴らしいことだなっ。まあ、まさに開拓者ということだな。などといつも不安場面をなんとかこなしたときにやっているように自分を持ち上げて褒めてやることにする。

そうすることで成功体験としての記憶が心にしっかり刻みこまれますように。過去の恐ろしい記憶が新たな穏やかな記憶にアップデートされますように。

逆にそうしないと、SADの人は成功体験を忘却の彼方に押しやってしまう。そして治療者に向かって宣言しちゃうのだ。「不安場面において震えなかったことは今までの人生で一度もなかった!」 嘘をついているつもりはなかったんだけど。少なくとも私の場合は。

次の目標としては、わざわざ不安の理由や反証を挙げていかなくても、高飛車モードに入らなくても、平常心でいられるようにすること。

わざわざ高飛車モードに入ったのは、やはりまだ自動的に自己否定に向かう力が残っているように思えたから。

ゼロ(平常心)を目指すには、マイナスの力(自己否定に向かう力)に対してプラスの力(高飛車パワー)をかける必要があったのだ。

何度も不安場面に挑み、こなしていくことで、過去の記憶は成功体験で塗り替えられ、自己否定に向かう力が生じなくなるはずだ。そうなれば、さらに自然にあらゆる場面に挑むことができる。

 

で、自己開発云々は?

 

ありましたとも。よくぞ聞いてくれました。いや、まあ、自分で聞いてるんだけどね。

このワイナリーは主にShirazを作っている。赤ワインだ。ところがオーストラリアの夏は暑い。赤ワインを教科書通りに室温で飲んでいたら、ぬるま湯の温度となってしまう。

お兄さんの注いでくれたShirazは、なんと冷えていたのだ。「夏も美味しく飲めるように少し冷やすと美味しいように作りました」と。

さらに驚いたことにはShirazのスパークリングまで作っているのだ。赤のスパークリングとは珍しい。もちろん爽やかに冷えていて美味しい。

これぞ独創的モノヅクリの真髄かもしれない。環境に合わせて、その土地の風土に合わせて、その環境下で飲む人が美味しいと思えるようなワインを開発していく。フランスの教科書? 夏の暑さの穏やかなところの教科書なんて無視。

このように教科書を無視するところがいい。そこから多くが始まるのかもしれない。当たり前と思われていたこと、既存の枠組みを否定してみる。そこから遊ぶように新しいことを試してみる。

今夜もこのShirazを冷やして美味しく飲もう。明日はきっと独創的な仕事ができる。