場面緘黙症の子が主人公の童話を読んで考えたこと

結末を読んでもハッピーエンドなのか、悲劇的結末なのか、明示されない小説がある。

After Zeroはそんな小説だった。

場面緘黙症の少女を主人公としたクリスティナ・コリンズ著の童話である。日本語翻訳版は出ていない。主人公のエリースはホームスクーリングを経て学校に通い始めたが、学校で喋れなくなる。学校でも少しは声が出せた(ロープロファイル場面緘黙と言及されている)ということもあり、単に大人しい子であると思われていた。

はじめは親切であった周囲の子ども達は、段々とエリースの沈黙に苛立ち始め、エリースはいじめられるようになる。喋らないために濡衣を着せられる。なぜ喋らないのかと問い詰められる。

皆私がなぜ喋らないのかを知りたがる。それは私も知りたい。なにかトラウマを負うような経験があったり、愛する人を失ったり、身体的な虐待を受けたり、などといったことがあったら良かったのに、とすら思う。そういうことがあったなら、喋らない言い訳にできるのに。

pp. 54-55

私をより困らせるのは何か、私自身にも分からない。誰もが私に説明を求めることか。それとも私自身にも説明できないということか。

p. 54

自分が喋れない理由が自分にも分からないことに苦しむエリースは、次第に喋れない理由についての妄想を膨らませるようになる。グリム兄弟の『12人の兄弟』で妹がひとことでも喋ったら兄たちが殺される呪いをかけられたように、喋ったら兄弟が危険な目に遭うのだ、だから喋ってはいけないのだと、自分が喋れない理由をつくり、自らを納得させるようになる。大人になってから自分が子供の頃場面緘黙症であったのを知った私のような人達は、エリースの不安が分かるかもしれない。自分だけが他の子達と異なり、喋れないのに、それがなぜなのか自分でも分からないのは、喋れないことと同様に苦しい。

物語には、度々カラスが登場する。カラスはエリースの想像上の産物のようでもあり、エリースを導く役割を担っているようでもあり、エリースが困難に陥りそうになると、「かあああ」と鳴き注意を引き、指針を示すかの行動をとる。

終盤では、エリースは、ついに場面緘黙症と診断され、治療を受ける。治療の内容については言及されない。

物語の最後は学校の場面だ。学校の授業で、グループになった生徒たちがひとりずつ発言する。

窓の外で、なにかが「かあああ」と鳴く。

私は息を吸い、口を開き、翼を広げる。

そして、飛ぶ。

p. 236

これが、エンディングだ。

さて、エリースは喋れたのか、喋れなかったのか。

喋ろうとしたのは描写から見て取れる。でもそれだけでは喋れたとは限らない。

私は場面緘黙であった頃、喋ろうとしても、喋れなかったことが何度もあった。喋ろうとすれば喋れるわけではない。

エリースは喋れたのか。

私は、エリースは喋れたのだろうと思った。それも、最後のこの場面だけ喋れたのではなく、その後ずっと喋れるようになったのだろうと思った。

なぜ私がそう思ったのかというと、それは上記に示した最後の場面の直前の描写にある。

皆が私に注目して、待つだろう。だが、それは避けられないことだ。摂食障害であった人がいれば、それを知っている人達は、その人がどのように食べるか、いつも注目するだろう。飲酒に問題を抱えていた人がいれば、それを知っている人達は、その人がどのように飲むか、いつも注目するだろう。そして、場面緘黙症だった人がいれば、それを知っている人達は、その人がどのように喋るか、いつも注目するだろう。「大人しい」ということ、それは私の体に入れ墨が刻印されているかのように感じられる。いつか、私はどこか別のところ、大学とか、誰も私にその入れ墨があるのを知らない場に行くかもしれない。けれども、今現在、私が前進したいのであれば、傷が癒える間、私は皆が私を見物するがままにしておかねばならない。入れ墨が私の服の下に、私の特徴の下に、消えていく間は。

p. 235

この記述を読み、私は驚いた。私が場面緘黙だった頃の思考と逆の思考だったからだ。私は自分が場面緘黙だった頃、以下のように思っていた。

私が喋るのを皆が待ち注目していては、怖ろしくて、喋れない。私が喋るときは注目しないでほしい。私が喋ったら、「喋った!」と騒がないでほしい。

私は不安だった。これまで喋らなかったのに突然喋ったら変に思われるかもしれない。喋らなかった私が喋れば、皆の注目を浴びるだろう。皆が私の喋る様子を見ようとする。そんなこと、想像するだけでも怖ろしい。喋らない私が喋ったら、なんだこれまで喋らなかったのにあの子は実は喋れるじゃないかと、訝しく思うに違いないのだ。そう深く信じ不安に思っていた。

喋ったら変に思われるのではと不安になる→喋れない→いつものように喋らないので注目を浴びずにすみ安心する→….

の繰り返しだった。それは以前の記事(『場面緘黙だったときに感じていた不安』)にも書いた。そしてその繰り返しが、私の場面緘黙を維持していた悪循環だった。

物語の最後の場面のエリースには、場面緘黙が維持されていた頃の私が抱いていたような不安はない。逆に、ずっと喋らなかった自分が喋るとき注目を浴びるのは不可避であり、それは仕方のないことであり、故に自分は注目を浴びながら喋るのだ、前に進みたいならそうするしかないと理解している。それは、思考と行動の織りなす「喋れない悪循環」からエリースが放たれていることを示しているのではないか。喋るときに注目を浴びる不安を克服したいなら、喋るときに注目されて不安を感じきるエクスポージャーをやるしかない。そのような認知行動療法的な知識がついているように思えた。なぜ自分が喋れないのかすら分からなくて、混乱していた描写から一転して、最後の場面のエリースには迷いがない。

注目を浴びてもいい。それでも喋る。

その記述は私自身の治療の記憶に重なった。震えてもいい。震えるのを見られてもいい。それでも私は発表できる。伝えたいことを伝えきることができる。私は認知行動療法を受け始め、専門家の下で、適切に、徐々に、エクスポージャーをやった。やるたびに、新たな発見があった。しばらく経ち、自分の認知が変容していることに気づいた。その過程は以前の記事(『震えてもいい』)に書いた。絶対に震えてはいけない。震えているのを誰にも見られてはいけないと治療前の私は深く信じ、疑いもしなかった。震えるのも、震えている自分を見られるのも、ものすごく怖ろしかった。ところが、その最も怖ろしかったことが怖ろしくなくなった。震えても、震えているのを見られてもいいと考えるようになった。適切に導かれた行動と発見を重ねるうちに「震えてもいい」という認知に至った。その頃には、それまで心身に深く張りめぐらされていた信念が緩んでいた。回避することもなく、そして不安場面に挑んでも震えもせずに喋れるようになっていた。

面白いのは、意を決して不安場面に挑めばそれでいいのかと言えば全然そうではなく、適切な方法で挑まなければ大失敗に陥るリスクがあり、克服どころか症状を悪化させてしまうところだろう。実際に私は治療を受けずに自己流で、ただ勇気を振り絞って不安場面に挑んだことがある。そうしたらそれまでにない規模の不安発作に襲われ、そのせいで社会不安障害をひどく悪化させた。そうなると致命的であることのを考えると、面白いというのはちょっと違うかもしれない。

勇気を出し、翼を広げ、飛び立てばいいというものではない。飛び方を知らなければ、飛び立った瞬間、崖から落下し、致命傷を負う。

エリースは、きっと、最後の場面に至る前に受けた治療が順調に進み、認知の変容に向けて少しずつ行動を重ねることに成功し、自分の不安の解消にはエクスポージャーを要すると発見するに至ったのだろう。治療の様子は描写されていないものの、物語全体に貫かれていたエリースの緘黙を維持させていた信念が、最後の場面では変容しているところから、治療はうまく進行したのだと私は解釈した。その対比的なエリースの認知の描写と、自分自身の緘黙経験および大人になってから認知行動療法の治療を受けた際の認知変容の経験から、私はそう解釈した。

反対に、もし最後の場面の直前におけるエリースのナラティブが、「私はずっと喋らなかったから注目を浴びるに違いない、嫌だ、おそろしい」だったら、エンディングの描写が同じでも、最後にエリースが羽ばたく描写は悲劇的結末を暗示する。私はそう解釈する。

エンディングの描写が同じでも、その前に展開された物語との関係性によって、ハッピーエンドにも悲劇にも、また別の結末にもなり得るのだ。それは、不安場面に挑むという同じ行動も、その前に適切な挑み方を学習したか、闇雲に素人考えで勇気を出してのことか、認知が如何なる状態にあるか… といった多くのエレメントとの関係性により、結果は異なる。同じ行動が、今後大きく前進していく一歩となるか、致命傷を負い再起不能に陥るか、天国と地獄くらい異なる結果に至るのだ。

そう思うと面白い。同じに見える行動が関係性次第で異なる結果を生じさせる別の行動となり得るのだから。

作成者: administrator

Mental health blogger, researcher, social anxiety/selective mutism survivor.